映画監督の夢→緑化デザイナー→?

もう30年前のこと。将来やりたいことも無かったが映画は好きだった。映画館もない佐賀の田舎町なので、「映画」とは町でたった1軒のレンタルビデオ店「ロッキー」で一泊二日レンタルできる500円のビデオだったのだが。映画館なんてデートでもない限り行く予定もない。佐賀だけでなく、当時の田舎町なんてそんなものだろう。上映からビデオ化までのタイムラグがもどかしかった記憶。

そんな田舎の高校生が考えた。そうだ、映画監督になれば映画見放題だし、自分の好きな作品作れるやん。日本大学芸術学部映画学科ってあるやん。そこ行ったら映画監督なれるやん。そうだ、日芸行こう!と17歳の冬。速攻で両親に伝えた。反応は…

「やめろ、お前には無理だ」

むう、確かにな、とは思ったが、認めたくはない思春期男子。一応反論した。いや、反論のための反論レベル。変な筋立てで最終的には口論になる。最後には「そんなに良い大学行って将来面倒見て欲しいとや?」という、今の俺から見ても最低の発言をして、母親を泣かせてしまったのを悔やむのだが、それで日芸の夢は終了。短い夢だった。

そして、別に頭の良い大学にも行けなかったのだが91年当時は同級生が200万人いて、俺が行った大学も倍率が15倍とか恐ろしい時代だった。ま、偏差値50の集団で15倍なんだが。だから当時の早慶とか行った人はバケモノかと思うほど、受験勉強と結果の獲得は尊敬する。就職して仕事で出会った三井物産の担当者は慶応卒の同年代だったが、盲目的にすごい奴認定してたもの。東大とか、さらに訳がわからん世界だった。

さておき、商学部で「異文化コミュニケーション〜アメ車が日本で売れない理由」的な卒論を書いて、建設資材メーカーに入社、宇都宮や東京で戸建やマンションの内装考えていたら、庭に出会って佐賀に帰ってきて、家を作ったら庭が欲しくなって師匠に出会って庭のデザイナーになってしまった。講師の仕事を得て今は大学院生の47歳。

ガーデンのデザインをしていたら丸の内やハウステンボスで作品を作るようになり、気づいたら英国ロンドンで王室の王立病院敷地で有田焼の庭なんか作っちゃったり。

今でも映画が好き。監督にはならなくてもいいが、映画に出てくる庭空間や花壇のわざとらしさ、心地悪さに気づくようになった。「なんでその花の取り合わせなんだよ」とか「造花?」とか色々感じてしまう。

だから、機会があれば、いや、必ず叶えたい今の夢は「映画の緑化」の仕事がしたい。小作品、大作、実行委員会があるような作品でもハリウッドでもインドの作品でもなんでも、映画の緑化の仕事がしたい。プレゼンしたい!

自然な感じで不自然な緑化を映画に写しこみます。どなたかご連絡お待ちしています。

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