神聖かまってちゃん「ゆーれいみマン」のカタルシス

 神聖かまってちゃんのベストアルバム『聖なる交差点』発売をきっかけに、かまってちゃんの好きな曲について、特に歌詞についていろいろ考えている。

 今回のベストには入っていないけど、僕にとって特別な1曲が「ゆーれいみマン」だ。

神聖かまってちゃんに興味を持って間もない頃、この曲を聴いて衝撃を受けた。

 居場所の無い教室で自殺願望を抱く少年が、それがなんの成果も生まないことを知りつつ、結局は自殺してしまうというストーリー。こんなに救いのない曲がこの世に存在し、支持を受けていることに当時の僕は驚いた。
 僕は当時、邦楽ロックはテレビで頻繁に見るようなアーティストの曲しか知らなかった。自殺をテーマにした曲であっても、最終的には自殺を思いとどまるとか、そういうポジティブさを内包してい”なければならない”くらいになんとなく思っていた。
 それがこの曲「ゆーれいみマン」は、自殺がテーマである上にどこにも救いがなく、最初は「こんな曲が存在していいものだろうか」と衝撃を受けた。しかし、動画のコメント欄でこの曲を愛好するファンの反応を読み、なるほど、こういう曲でしか掬い取れない感情があるのだ、こういう曲を必要とする人も確かにいるのだ、と理解できた。
 この価値観の変容が、僕が神聖かまってちゃんを、もっと言えば「救いのない」表現全般の良さを認識できるようになった一つのきっかけであると思う。


 この曲で特に好きなのが、最後の4行だ。

その忘れられたような窓際の席で
目が合うとしたならば素敵な事ですね!
日に照らされた時、そこには椅子だけじゃ
なんとなく寂しいけど、仕方ないですよね!

神聖かまってちゃん「ゆーれいみマン」より

 この4行のただごとじゃない詞としての表現力、美しさはなんだろう。他のパートと比べても異質だ。そのあたりのことを考えたとき、「ゆーれいみマン」はただの「救いのない」曲ではないと思えてきた。


 曲の序盤から中盤で歌われるのは、教室での残酷な日常だ。そこで日々発せられる言葉はクラスメイトという共同体の論理に縛られていて、無味乾燥としている。少なくとも疎外された主人公の視点からはそうだ。
 それを反映するかのように、歌詞で使われる言葉もここまではそっけない。主人公の嘆きや自嘲も、クラスメイトからの罵倒も、散文的な日常の言葉で表現されている。歌詞としてはレトリックに乏しく、一読して意味がわかる。その俗っぽさが、主人公がいる環境の身も蓋もない残酷さをかえって克明に表現している。
 「幽霊」という言葉は、本来ならファンタジー世界の友人や敵として、怨念や恐怖の象徴として、もっとドラマチックに扱われてもいいワードのはずだ。しかしそれすら、比喩や言葉遊びの対象として卑俗に染められている。「ゆーれい」というかな表記は、自暴自棄なユーモアであると同時に、その言葉が本来持つ豊穣な意味が奪われ、単なる音に成り下がってしまったことを表しているようだ。

 しかし、「よっしゃ行くぜ!変身」の掛け声(歌詞カードには表記されていない)を合図に、それまでの詞世界は一変する。
 そこに表われるのが、前掲のあの美しい4行だ。

 ここで急激に、表現は見事な詩情を帯びる。詩情といっても定義が曖昧だけど、まず分かりやすいのは、この4行に「幽霊/ゆーれい」という言葉は1回も使われていないということだ。にもかかわらず、ここにはものの見事に幽霊が現出している。この技術。
 「目が合うとしたならば素敵な事ですね!」は、目を合わせてくれなかったクラスメイトへの皮肉だろうか。この主人公に感情移入するリスナーとの邂逅のことだろうか。解釈に幅のある表現はすなわち豊かさであり、主観と客観、此岸と彼岸の越境であり、「幽霊」に本来あるはずの力だ。

 「ゆーれいみマン」は、日常からの離脱により、「幽霊」という言葉が本来持っていた豊かな想像力と詩情を奪還する瞬間、そのカタルシスにこそ「救いがある/ない」を超えた感動がもたらされる曲なのだ。

 神聖かまってちゃんの歌詞は、常に詩的なわけでも、常に技巧的なわけでもない。だからこそ、日常と非日常を、卑俗と神聖を、無味乾燥と豊かさを、ダイナミックに行き来する。
 その飛躍の飛距離こそ、ステージ上から客席へ、アンダーグラウンドからメジャーへ、ネットの向こう側からこちらへ、軽々と越境してみせる彼らのダイナミズムにはふさわしいものだ。


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