Twitterが好きだった

 X(見切りを付けたくなくてまだ「ツイッター」って呼んでたけど、もういいや)を、ゆるやかにだけど辞めていこうかなと考えている。正確に言えば距離を置こうと思っている。
 いまだに良い言葉もたくさん交わされていると思うし、必要不可欠な人や団体もいるだろうと思う。まだまだ意義や価値のあるサービスだと思う。それでもいくらなんでも、良くない方向に働く力があまりに大きすぎるのを実感して恐怖を感じた。少なくとも自分のように自信が無くて不安定な人間がこれといった目的もなく使い続けるのは、精神的に危険な気がした。自分が傷つくのも怖いけど、傷つける側の一部に簡単になってしまいそうなのが何より恐ろしい。
 Xが悪くなったというだけではなくて、自分の方にも問題が出て来た。どんな正当性のある意見を見ても、その言い切りめいた言葉(サービスの形態上しょうがない)に悪い意味で圧倒されたり、自分が責められているように受け取ってしまい、使っていて良い気持ちになることがほとんど無くなってしまった。あとまあまあ依存症気味だったってのもある。
 スマホからはアプリを削除した。今はパソコンでなら見れる状態だ。好きなアーティストの公式アカウントなどを入れた最小限のリストがあるので、今はそれをたまに見る程度にしている。
 まあ多分、本格的に辞めることは当分できないと思う。アカウントも残すし、いいねもするし、たまに普通のタイムラインを見たりポストしたりするだろうし、何も変わらないともいえる。気が変わって活発に使いだすときもあるかもしれない。ただ、今までのように四六時中どっぷりの使い方からはガラッと変えるために、実質辞めるぐらいの心づもりでいようと考えている。

 Twitterのアカウントを作ったのは今から7年前、大学に入ったときだった。それより前、スマホを持っておらずインターネットが自由に使えなかったの高校生のときから、Twitterには強い憧れを持っていた。クラスでは絶対にひとりも通じない、好きな音楽や漫画の話を気軽におおっぴらにしたかった。あわよくば同好の士を見つけて関わりたかった。恥ずかしいけど、明確な将来の夢が「ツイッターをやる」ぐらいしかなかった。それくらい希望を持っていた。

 アカウントを作ってから、いろんな良いことがあった。異常に趣味の重なる人がいたり、すごく価値観の合う人がいたり、たくさんの優しい言葉や楽しいユーモアや面白いコンテンツに出会えたりして、世界に希望が持てた。文字上でコミュニケーションを取ることが苦手であまり積極的にリプライをしたり仲良くしたりはできなかったけど、それでもごくたまにちょっとしたコミュニケーションもできて、その一つ一つがすごく嬉しかった。
 自分の価値観も流動的なので、一貫した使い方みたいなのはできなかった。フォローしたり外したりもわりと悩みつつ、あくまで自分本位で使ってきた。良くない発言や振る舞いも何度かしてしまったように思う。申し訳ない。どんなにクローズドに思えてもどんなに自分を低く見積もっても、自分の言葉は良くも悪くも絶対に人に影響を与えている、ということを最近は思うようになったけど、ちゃんと意識した上で使い始めればよかった。今は気づけて良かった。

 今のXの仕組みやそれを使う人の、どこに問題があるとかどこが嫌だと感じるかを詳しく指摘することはぼくにはできない。正しさや思いやりの在り方については人のこと言えたもんじゃないし、いつから何故今みたいになってしまったかは複合的で難しい。いちユーザー(それも使うのが下手くそなほう)のぼくが言えることはない。
 それでも、想像力や慎みはもっと働かせるべきだよなあ、くらいのことは思う。もちろん自戒として。

 これからはXの代わりに本をたくさん読むようにしようと思う。熟慮された言葉、曖昧な領域の言葉、必ずしも正しくない言葉、信頼できる言葉などには、本のほうがちゃんと出会えると思う。

 7年間のTwitter/Xで出会えた、一度でもいいなと思えた人、アカウント、言葉、作品、コンテンツ、物事には感謝の気持ちしかない。

 Xを続ける人も、やめる人も、続けざるをえない人も、やめざるをえない人も、いつも心穏やかに過ごせますように。悲しいことが起こりませんように。もっと気楽に、もっと優しくなれますように。本当に心の底からそう思っている。


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