フリッパーズ・ギターと小沢健二とコーネリアス と僕 その②

 コーネリアス/小山田圭吾の魅力を書くのは、僕にとって小沢健二より難しい。不遜な物言いになってしまったり、観念的な表現が多くなってしまう気がする。


 フリッパーズ・ギターを聴き始めたとき、メインボーカルの声が誰なのかよく知らなかった。後の活動をなんとなく知っていたので、小沢健二は歌う人、小山田圭吾はあんまり歌わない人というイメージがあり、なおかつ二人の声がよく似ているので、フリッパーズのボーカルは小沢だと思ってしばらく聴いていた気がする。
 フリッパーズ・ギターのメインボーカルは、のちのコーネリアスこと小山田圭吾の方である。僕は彼の声がかなり好きだ。特に全編英語詞である1stアルバムの、全然ネイティブな発音に寄せていない歌い方がかわいらしくて良い。”しーざでぃすたんくらうど!ぜにゅふぃるそぷらうど!”と、なんとなく”ひらがなで”歌ってる感じがする。

 また、彼はいわゆる”歌が上手い”ボーカリストでは決してない。ライブ音源ではより不安定な歌声になる。個人的にはそこも好きだ。音程が正確無比のボーカリストよりも、多少不安定なほうが日常で聴いている人の話し声に近い感じがするというか、なんだか友達が近くで歌っているような親しみを覚える。フリッパーズ・ギターで一番好きなアルバムを訊かれたら悩むけど、ライブ盤の『on PLEASURE BENT』が、聴いてるときの心地よさだけで言ったら一番かもしれない。

 あと個人的にピンポイントで好きなのが、母音の”o(オー)”が連続するときの彼の声の響きだ。「ゴーイング・ゼロ」に〈このスコープを覗きこむ僕を砂が覆おう!〉という歌詞がある。”覆うだろう”という意味の〈覆おう〉という言い回しを選ぶ作詞の小沢健二もすごいのだが、この言葉選びは"oooo"というoが異常に連続することへの違和感が耳に引っかかり、この曲のボーカルで一番印象深い部分になっている。

 ずっと後、コーネリアスの楽曲「MUSIC」の〈国境を横断〉という歌詞も、発音で表すと”kokkyooooodan”となり、やはりoの異常な連続が耳に残る。彼の声質のちょっと奇妙な感じがよく味わえる。

 なんかマニアックなフェチっぽい話になってしまいちょっと気持ち悪い気もしてきたが、とにかく彼の歌声のかわいさ、心地よさ、不安定さ、奇妙さが好きで、単純な声質の好みで言ったら全ボーカリストの中で一番好きかもしれない。

 こういう風に歌声の話だけで延々としてしまえるように、小山田圭吾は”言葉の人”というより”音の人”だと思う。
 主にその詞や言葉が表現活動において評価され、印象的である小沢健二に比べると、小山田圭吾はそういった言語的な点での客観的な評価や印象深さは薄く、サウンドやメロディこそが特徴的な人だ。「コーネリアスっぽい曲」というのはイメージできるけど、「オザケンっぽい(曲調の)曲」というのはあまりイメージしにくい。

 フリッパーズが解散し、コーネリアスになってからの1stアルバム『ファースト・クエスチョン・アワード』の歌詞は、フリッパーズ・ギター的な作風を完全に引き継いでいて、歌詞においてもフリッパーズのスタイルを多分に残している。小沢健二の1stの歌詞が、フリッパーズからの大転換を図ったのとは対照的だ。

 ただし、フリッパーズの歌詞は全て小沢によるものだったため、『ファースト~』のフリッパーズっぽい歌詞は、言ってみれば小山田による小沢のマネのようなものになっている。
 『ファースト~』の歌詞はフリッパーズ時代の小沢詞に寄せているだけに、どうしても詞としての完成度を比較してしまう。そして正直言って、『ファースト~』の方が拙く感じる。
 たとえば、〈読みかけた殺人者の本のページをめくる〉(「バッド・ムーン・ライジング」)なんて歌詞はちょっと聴いていて恥ずかしくなる。フリッパーズの歌詞にはもう少しバランス感覚があり、ひねくれている自分を客観視するようなクレバーさがあったが、『ファースト~』の小山田詞はある意味”素直に”ひねくれている。
 フリッパーズの歌詞がより平易になり、多重的でなくなり、直感的になった感じだ。
 僕はこのアルバムの詞が、とはいえ全然嫌いじゃない。フリッパーズ的な青春から脱却してしまった小沢に対して、まだこのスタンスで生きていきたいというような、それはそれで切実な思いが恥ずかしいくらいに伝わってくるからだ。
 小沢健二はフリッパーズ時代の〈きっと意味なんてないさ〉(「ビッグ・バッド・ビンゴ」)に、ソロ1stアルバムのラストナンバーで〈意味なんてもう何も無いなんて 僕がとばしすぎたジョークさ〉(「ローラースケート・パーク」)と自ら解答した。さらにそれに対抗するかのように、コーネリアス1stアルバムの1曲目の最初の歌詞は〈あらかじめ分かっているさ 意味なんてどこにもないさ〉(「太陽は僕の敵」)だ。

 いわゆる”人間的成長”のようなものを見せて感動的な小沢に対し、小山田圭吾は分が悪いようにも思える。
 しかし、意味から背を向けた小山田の詞は、また別の美しさを帯びていくことになる。そして、これ以降彼は”自分語り”的な作詞をしなくなる。

 小山田圭吾の歌詞には、小沢健二ほど言葉が上手い人じゃないからこその凄さがあると思う。その魅力は2nd~3rdアルバムで前面に出てくることになる。
 傑作として名高い3rdアルバム『FANTASMA』の中の人気曲「STAR FRUITS SURF RIDER」の歌詞は、純粋で素朴な感受性が最高の形で表われていると思う。

 〈海のそばにいた 少し寒かった 星が凄かった 誰もいなかった〉
 小沢健二に”星が凄かった”なんて歌詞が書けるだろうか。論理や意味を超越した叙情がここにある。

 こういう風に、僕はどうしても小山田圭吾の歌詞に関して、天才・小沢健二という元相方との比較として見てしまう部分がある。

 僕は基本的には、小沢健二のように成長や葛藤が窺える、ストーリーのような物が浮かび上がるアーティストの方が好きだ。だからそれがあまりないコーネリアスは、自分の趣味の中ではかなり例外的だ。
 でも、コーネリアスの曲を聴いていると、物語や意味から外れた部分でも美しい物が世の中にあることを思い出させてくれる。音質やメロディーが単純に綺麗というのもあるし、見たまま感じたままをそのまま出したような歌詞からは、なにか純粋なもの、子供のようなイノセンスを受け取れる。

 最新アルバムの『夢中夢』1曲目「変わる消える」には〈子供のような 遊び〉という歌詞が出てくる(作詞は坂本慎太郎)けど、まさに〈子供のよう〉というのはコーネリアスの作品にピッタリの言葉だ。母音も全部oだし。

 『夢中夢』にも収録されている「環境と心理」は、小山田圭吾の作詞の最高傑作だと思う。

 〈なんとなく気分が ちょっとだけ晴れてく 変化する景色や 環境と心理 今 空 夕暮れ時 赤く染まる〉
 この歌詞のなんてことなさ、普通すぎる言葉の並びの凄味。なぜこれだけでこんなに優しく穏やかな気分になれるのか、理屈では全く説明できない。

 小沢健二の曲とコーネリアスの曲から受け取る感動は、それぞれ全く別の心の動きである気がする。でもどちらの種類の感動も、生きていく上で必要不可欠な気高いものだと思う。

 なんだか最初から最後までぼんやりした話になってしまった。コーネリアスの曲から感じる良さについては、もっと適切な言葉がいずれ見つかるかもしれない。し、このままでいいのかもしれない。


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