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分からないままで生きる/見る(『きみの鳥はうたえる』を観た)

 つい先日のこと。演劇の本番が終わって、なんだか虚脱状態のまま家に帰った。そのままは眠れない気分だったからなにか見ようと思って、リビングにあるプロジェクターの電源をつけ、Amazonプライム・ビデオで目ぼしい映画を探すことにした。上下左右に敷き詰められたサムネイルを行き来していると、無料配信がそろそろ終了する映画のところに『きみの鳥はうたえる』を見つけた。数年前に早稲田松竹で観た。なぜ観たのかはもうはっきりとは覚えていない。映画館から出たときに、すごく良い気分だったことだけが体感として残っている。レイトショーだったから、そのときも夜だったはずで、この映画を久々に観てみるのもいいだろうと思った。ちょうど時計が0時を指していて、2時手前までには終わる。

 『きみの鳥はうたえる』は佐藤泰志の同名小説を映画監督の三宅唱が映画化した作品だ。あらすじとか登場人物を紹介しはじめると、この文章を終わらせることができないから、そういうことは以下のサイトに譲る。

 さて、ある作品を長いブランクをあけて鑑賞するという行為はどうしたって驚きを呼び込む。記憶のなかで変質したあのときの作品のおぼろげな姿と、いままさに目の前で再生されるこの作品のはっきりした像との隔たりがはっきりするからだ。
 そして、今回の場合、『きみの鳥はうたえる』はこんなにエロい映画だったか、とぼくはびっくりした。もちろん、恋愛を描いているとか性交のシーンがあるとかで、エロさを感じたわけじゃない。この映画には生活の質感を映そうという気概があり、そのなかにエロティシズムが宿っている。
 生活の質感。それは例えば、僕(柄本佑)のズボンの脱ぎ方であり、佐知子(石橋静河)のベッドからの落下であり、静雄(染谷将太)の体育座りである。ドアのなかなか閉まらない冷凍庫でもいい。ここにぼくではない身体の運動が映されている。ぼくが人生で一度もしたことのない身のこなしが、他人にとってごく自然なものとして現れている。これを「観客の窃視的な欲望がカメラを通じて実現される」とか言ってしまうと、途端にイヤな感じになってしまう。この映画は(友人の性交を邪魔しない静雄のように)そういう覗き見趣味の手前にいる。見てはいけないものを見ているとか、誰にも見せない姿を見ているといったような暴露的なものではなく、もっとささやかな他者性の発見がここにはある。自分の振る舞いが個別的なものであり、別のかたちがありうることが感覚される喜び、もしくは、敬意。偶然的に選択された他者の姿勢に出会うとき、ぼくはぼくがぼくでしかないことと、そうした自分でしかなさを抱えた他者もまた同等に存在することを発見する——それをぼくはエロいと思っているし、それが生活をまなざすということだと考えているんだろう。

 そして、もうひとつ特徴的なショット群は、会話のなかで聞き手ないし傍参与者(話し手に直接発言を宛てられていないが、次に発話を行う可能性はある者)の立ち位置にある人間の顔だろう。話し手と聞き手が同時にフレームに収まるのでもなく、かといって、主となる話し手が大きく映し出されるのでもなく、話している様子を見聞きする人間のショットが何回も出てくる。これは、この作品の中心となる僕・佐知子・静雄の3人によって作られるコミュニケーションを映すための方法として採用されているのだと思う。話に積極的に参加するでもなく、けれど2人の話を聞きながらその場の雰囲気を窺うようなひとの顔、いつでもその立場は変更可能である流動的で不安定な人の顔を介して、ぼくらはひととひととのコミュニケーションを認識し想像する。このとき、カメラは作中人物と同一化するわけではないから誰の眼差しでもないようで、しかしある種の不自然さを残している——3人の会話であまり喋らない人間をじっくり映すことは、どうやら映画的には普通じゃないらしい、というのが体感としてわかる——からこそわざわざこの姿を捉える何者かの眼差しであるようでもある。この存在感のある眺望を与えられて、ぼくは彼/彼女たちとともに、ある種の宙吊り状態のなかでその場のやりとりに参与しかかる。

 そうした映像の集積から、観客であるぼくらが、彼/彼女たちとの生活を過ごしたかのような感覚が産み出される。ただ傍観するというラインを越えて、生活のなかにぼくらもまた参与している。そんな錯覚(?)を感じる。だから、先ほどは「覗き見趣味の手前」と言ってみたけれど、そうではなくてその「奥」なのかもしれない。もっと踏み込んだところにいるからこそ、複雑なエロティシズムが映し出されている。僕があるシーンで佐知子に向かって言う「二人を見てれば分かるよ」という台詞。まさにその「見てれば分かる」を観客に差し出すために、ショットが積み重ねられているとも言えるだろう。ここでの「二人」は佐知子と静雄のことだが、観客は僕のように「見てれば分かる」なんてことは必ずしもない。しかし、ぼくらには彼/彼女たちを見ていた実感が色濃くある。そこでは、作中人物との認識の齟齬も含めて、(擬似的な)生活の実感のなかに落とし込まれていく。分からなかったことの手触りが、別の分からなさと地続きにやってくる。ほんとのところをいえば、映画の登場人物の行動はぼくからは遠いところにある。僕がいろんな約束を反故にして平然としているのも、静雄が祝い花を持って帰るのも、佐知子がそんな彼らに心を許し仲良く振る舞うのも、ぼくの生活には出てこないことな気がする。でも、そういう共感不可能な行動をとる人間たちにも生活している時間があり場所があるということがずっと映されている。生活という基盤のうえで、非社会的な行動が選択されること。めっぽう分からないけど、分からないままでもいいから見続けられる。そんなひとたちを見ることを通して、ぼくは彼/彼女たちともっと奥底でつながることができるかもしれない。

 これをきっかけに、ぼくは読まずに積んでいた『そこのみにて光輝く』を朝と夜とで読んだ。福間健二が文庫の解説を書いていて、佐藤泰志は人を変容させるような突然の「出会い」をうまく書く作家なのだと言っていた。まだ映画の原作となった「きみの鳥はうたえる」は読んでいないからどこまでが佐藤の手による創作なのか分からないが、でも確かに決定的な出会いをこの作品もまた描いていて、それは作品内部の物語に限らない。この映画は観客にとってもまた出会いの映画であって、それは顔を持つ他者との出会いという形をとって表れている。ひととひととが出会って別れる映画の時間。ぼくらは彼/彼女たちと出会い、そして別れていく。その道のり。長くて短い道のり。2時間ばかり。分からなくても見ている。

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