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「ハローグッバイ」さよなら、ありがとう、おやすみまたね。

私という人間は、私自身にも全くよくわからないもので。
やれ今日は雨が降っているからだの、靴下のうさぎマークがお気に入りでないだの、あれこれ理由をつけては出席と欠席を散々繰り返していた高校の卒業式で「みんなと過ごした3年間全部が宝物です…」だなんて使い古された台詞を号泣しながら吐いていたりする人間だ。

わんわん泣きながら口から滑り落ちてゆくそんな台詞を耳が受け止め、脳みそに届く頃には「おいおい、お前は何言ってんだ」と腹を抱えてゲラゲラ笑うもう1人のわたしが誕生する。

寂しいと号泣する私も、
それを笑う私もどちらも本物で、
そこに嘘も本当もない。
マーブルみたいに綺麗に混ざり合って、ただただそこに存在している。

「平成が終わる」と聞いた時の感情もそんな感じだった。心が震えるでもなく、切なくもない。そこにあるのは「古いものの終わり」と「新しいものの始まり」という単純な2つの事実だけなのだ。
新しい年があけるのも、
クリスマスがやってくるのも、
春になるのも。
ただ古いものが終わり、新しいものが生まれるだけ。

だって終わったからといって私が突然消えてなくなるわけでもなければ、始まったからといってスパイダーマンのような、超人無敵に生まれ変わるわけでもない。

だけれどこれだけは分かる。
こんな冷静な私はきっと今日23時くらいまでなもので、その後はカチリとスイッチが切り替わるように、きっと両目にうっすらと涙を溜めながら「あなたと共に生まれて生きてきたんだね…ありがとう…」なんてポエミーなツイートを140字めいっぱい使って認めてしまうくらいには、感情が高ぶっていることだろう。

今日で、30年間続いた平成が終わる。

平成の元年にこの世に生を受けて、一緒に走ってきた私も、終わる。
(いや、正確には終わらないんだけど)。

「どんな気持ちになるかな」
と思っていたけれど、静かで、いつもの日々のような、でも少しだけそわそわして、胸の奥で切なさが少しずつ花を咲かせるこの感じは、やっぱり卒業式の前日に似ている。

物理的には、4月30日の私も、5月1日の私も何も変わらない。
でも心の中では確かに、新・私 が誕生するのだろうな。そんな予感がする。もちろん同時に、指をさしてゲラゲラ笑う私も生まれると思うのだ。

「この時代に生まれてよかった」
今わたしが平成をそんな風に振り返ることができるように、次の時代に生まれてくる人類にも「よかった」と思ってほしい。

このバトンをきちんと、次の世代へ。
明日は「平成」の卒業式を、めいっぱい体全身で楽しもう。

ハローグッバイ。
さよなら、
ありがとう、
おやすみまたね。

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