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単純でもいい

大人になってからいろいろなコミュニティで大人と話しています。
元々話すことが好きなことと仕事を辞めてから学びを広げようと参加する場を増やしたこともあり、最近は多様なバックグラウンドをもつ方達との交流が楽しくてたまりません。

大人の話は単純な話題からどんどん深い話になっていきます。
それが楽しいだけど、私は途中からついていけなくなります。
でも、それは私にないものを教えてもらっているので、新しい知識としてとても面白い。
それが身につくかどうかは別として、楽しいことには変わりありません。

入る入口が違う

深い理解ができないから、そうなるんだとこれまで思って落ち込んでたんですが、実は入る入り口から違ったんだ、ということが分かってきました。

イエナプランの勉強会で「人が幸せであるとは具体的にどういう状態のこと?」という問いで対話をした時、私の頭の中には「お腹が空かない、他に何もいらない」しか出てきませんでした。
私は幸せだとお腹が空きません。何も食べず、何も欲さず、幸せの実感だけで過ごせます。
それを話したんですが、他の参加者の方は唖然としていて、全く思いつかなかったようで、皆さんそれよりも精神的だったり、現実的な話だったり、なんだか大人な話で盛り上がるのです。
私の意見を肯定はしてくれましたが、すごく温度差を感じました。

自分のやっているスクールで「12月」をテーマに問いを考えたときも、私は「初雪はいつなのか」の一択しか頭に浮かびませんでした。
現に毎年12月に入るとそれが私の重大テーマなので。
それを話したとき、前述の勉強会と同じようなことが起こりました。
「そんなこと考えてるんだね」と言われた時に隠れたところに(大人になっても)がついている感じを受け取りました。
場にいる大人との温度差、そこにいる子どもの方が私に近かった。

大人の入口と子どもの入口があるとしたら、私は子どもの入口。
そりゃあ、深い話になっても私は1人でまだ浅いはずです。

子どもに近い

今までの私なら、これで自信を失ってなんとか自分を変えようと頑張るんですが、それを続けた結果まだこれなので、もうこれが自分なんだな、と受け入れます。

じゃあ、この私でいる良さって何?
と考えたら「子どもに近い」ということかな、と。
大人だけど大人になりきれない、そんな大人がいても良いのかな、と。
きっとこんな未完全な大人がいることでホッとする子もいるかな、と勝手に思うことにしました。

教師時代も今も、大人目線ではなく子どもと対等に話ができるのは、私のこういう単純さゆえかもしれません。

それでいい

諦めと捉える人もいるかもしれませんが、私はこの私の単純思考を「それでいい」と肯定することにしました。
そこから生み出せるものもあると思うので。

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