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(私小説) 運命は扉をたたくか No2

病 名 確 定

受診


 
 日本航空一二三便が群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、阪神タイガースが二十一年ぶりのセ・リーグ優勝と、事件が多かった昭和六〇年秋に、地元で一番大きな大学病院の整形外科をたずねました。担当医師はいつからどう言う症状があったか聞き、ベッドに上がらせて私の体のあちこちを調べ始めました。しかしすぐにこの体の異変が管轄外だと見抜かれたようです。神経内科に行ってくださいと紹介状を手渡してくれました。私はその足で神経内科を受診したのです。

 先生は私が椅子に座って話をはじめるや、目ざとく、私の手を持ち、親指と人差し指の間の筋肉が萎縮し、くぼんでいることを私に教えてくれました。そのときまで私は手の筋肉が萎縮していることも、くぼんでいることもまったく気がつきませんでした。とにかく私のこの体の異変はまったく痛くなかったからです。

 先生は、では検査入院の手続きをしましょうと実に手際良く電話をし、指示書を書いてくれました。もうそれは当たり前のことというような作業で、あっけにとられて私はその作業を眺めていただけです。私はかろうじてその検査入院が二週間かかるということだけを聞き出しました。

 さて会社に戻って、例の仕事の鬼のような直属の上司に、検査入院のことを話し、了解をもらいました。私の仕事は新商品を数種類、同時平行して一人で開発していましたので、この仕事を先輩と後輩に引き継がねばなりません。開発室の仕事はすべて個人でやっていましたので、引き継ぐとなるとそのすべてを他人に分かりやすく説明しなければならず、まったく大変な作業でした。

 しかしながら、時に終電で帰宅し、会社に寝泊りするという事もしていましたので、この検査入院の二週間は少なくとものんびりできると、普段と違う生活に不思議な喜びを感じ、職場の先輩から、入院するのにたのしそうやなと皮肉られました。まさか先輩と後輩に引き継いだ仕事が、二度と自分に戻ってこないなどということは、まったく想像だにしていませんでした。
その時、私には『世の中、一瞬先は闇』などという言葉など存在しなかったのです。考えてみれば、それは土砂降りの前の、最後の晴天でした。
 

検査入院


同年、冬を迎え、初めて歩く格好がおかしいよと指摘された時から二年半が過ぎていました。入院の日、どこまでものんきな私は、自宅から簡単な身の回りだけを持って、神経内科病棟にスクーターで横付けしました。。検査入院は予定では二週間でした。

 たかだか二週間ですし、自分で洗濯もできましたので、荷物などスクーターの荷台で十分すぎたのです。検査のために入った病室は二人部屋で、やはり私と同じく検査入院のためにやってきた五〇歳台の男性と一緒でした。
 一通りの問診の後、担当の医師がやってきました。私の担当医は若い研修医で、この付属病院の大学の医学部に現役で合格をしたエリートでしたが、クラッシック音楽をこよなく愛する至極感じの良い青年で、年回りは私より三、四歳くらい下に見えました。

 翌日から検査検査の毎日です。心電図、MRI、レントゲン、尿検査、血液検査、筋肉生検、髄液採取、筋電図検査・・・。血液検査の結果は実に明確に出ました。なんでもCPKの値が一二〇〇前後と通常が一〇〇以下ということから考えると、いかに筋肉の破壊が進行しているか恐ろしいほどでした。
 
CK(CPK)”とは筋肉細胞にもっとも多く含まれている酵素の一種です。“CK(CPK)”は組織がダメージを受けると血液中に漏れ出る性質があります。このため、“CK(CPK)”が上昇している場合には、調べることで、どの臓器にダメージが生じているかを推測することができるのです。血液中に含まれる“CK(CPK)”のほとんどはCK-MM(骨格筋に含まれる酵素)です。このため、“CK(CPK)”が大きく上昇している場合にもっとも考えられるのは、過度な運動などによる筋肉のダメージや筋肉に損傷が加わるような病気です。
 
 また筋肉生検もやりました。これは筋肉の一部を切り取り、病巣があるかどうか確かめるものです。左足の太股の一部の筋肉を切り取りました。
 私は検査の結果何かあるとは思っていましたが、この時期はできるだけ明るく振舞えば、結果も自ずと明るい結果になると信じて、 詰め所に置いてある雑誌の、『プロのコックが作るカレーのレシピ』という本を熱心に勉強していました。

 ある程度検査が進んでいき、担当の医者にとっても一つの結論が出たのでしょうか。入院して一週間目、明日は院長回診があるという日の夕方、ふらーとインターンが病室にやってきました。いづれ分かることだからと前置きをして、私に確定した病名を告げました。
「脊髄性進行性筋萎縮症あるいはクーゲルベルグ・ウェランダー病 というものです」
私にはこの瞬間、

進行性

 という言葉だけがやけに大きく聞こえました。
進行性!!
「進行性ですか?」

私はインターンに驚きと疑問を投げかけました。とっさの質問に黙ってしまったインターンにまた尋ねました。

「進行性ですね?」

インターンは進行性という言葉が患者にどういう気持ちを起こさせるかということをようやく悟ったのでしょう。進行性という言葉が嫌なら、脊髄性筋萎縮症と言ってもいいですと病名を『まけて』くれました。

 私はこの病名を聞いた後の記憶がほとんどありません。その後、インターンとどういう話をしたのか、いつインターンが去ったのか、まったく覚えていません。進行性という言葉が思いもかけないものだっただけに、頭が急に働かなくなったのです。ただ覚えているのは、その時、進行性という言葉だけが頭の中を何度も何度も回りつづけていたことです
 

 脊髄性進行性筋萎縮症


 
 インターンから病名を知らされた日から私の苦悩は始まりますが、まだこの時期はさして深刻に物事を考えていませんでした。こんなことがありました。

 病名の告知があった週の土曜日には、検査もありませんので、外出届を出して、近くに遊びに出かけました。二時間程度の外出予定で、私は屋台のお好み焼きを食べ、ぶらぶらしただけで帰ってきたのですが、病棟に戻ってきたとたん、看護師からただならぬ口調で、どうして予定時間を過ぎたのかと問いただされてしまいました。予定を三十分ほど遅れただけで、どうして言われないといけないのか、私は不可解でした。

 今から思うと、きっと帰宅時間を過ぎても帰らない患者を心配して、病棟では、もしかして、、、という話があったのだと思います。考えてみれば不治の病を宣告された直後です。自殺の可能性を病棟の看護師が考えても不思議ではありませんでした。しかし、私が本当に苦しみだすのは、退院して会社に戻った後です。入院中はまだ何が起こったのか当人はもうひとつピンと来ていないというのが正解でした。 

 ですから、病棟の看護師がどういう心遣いで私に接していたかなどまったく理解していませんでした。退院が迫ったある日、廊下を歩いていると婦長さんが、
「がんばるのよ!」
と、万感の思いを込めて励ましてくれた言葉にも
「はぁ・・・」
と、いまいちその激励の意味が分かりませんでした。
 やがて検査入院も終わり、私は職場に戻ることになりましたが、思いもかけない出来事が待っていました。



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