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地下鉄サリン事件の取材で学んだ、「そのまま書くこと」の尊さ。

「いい石に、きれいな細工はいらないんだ。グッと持ち上げて爪をかけて、それだけでいい」

宝石職人さんのインタビューに、そんなことが書いてあった。本当にいい宝石なら、まわりをダイヤで囲んでキラキラにしたり、凝った枠をつけたりしなくても、いい指輪になる、と。

たしかに、おいしい野菜は生でもおいしい。ヘタのところから、青い草の香りがふわんとするピカピカの赤いトマトを、煮込んだり、ドレッシングをかけようと思わないのと同じだ。「書くこと」も同じじゃないかと思うことがある。

目次
*1995年3月20日。地下鉄サリン事件が起きた。
*取材力なし、スペック低めの担当編集者。
*ふさがりかけた心の傷を、取材者はこじあけていいのか?
*泣かせる言葉も、感動の言葉もいらない。
*上手な文章が心を打つという嘘。
*忘れないために言葉はある。

1995年3月20日。地下鉄サリン事件が起きた。

オウム真理教が、あの朝、地下鉄にサリンを撒いた。13人が亡くなり、被害者は5500人とも6000人とも言われる。なにしろ、通勤時間帯の地下鉄なのだから、いろんな人が乗っていた。

もうすぐはじめての赤ちゃんが生まれる若い会社員。就職したばかりの女性。経理のプロ。ベテランの営業マン。旅行代理店で頑張っていた人。大学生もいた。みんな、まさか自分が乗っている朝の通勤電車でテロに遭うなんて思ってもみなかっただろう。命を奪われなかった人も、健康被害やPTSDにくるしんだ(それは今も続いている)。

家族を殺された遺族にしてもそれは同じだ。朝、いつもどおりに「いってらっしゃい」と見送った大事な人と、二度と会えなくなってしまうなんて、どうすれば想像できるのだろう?

取材力なし、スペック低めの担当編集者。

事件から3年後、地下鉄サリン事件被害者の会の手記集を担当することになった時、わたしはまだ若い、へなちょこ編集者だった。被害者のなかにはご自身で手記を書いてくださった方もいたけれど、誰もが文章を書きなれているわけではない。そんな方には「聞き書き」の手記をまとめることになり、ライターさんとわたしとで、取材に伺うことになった。

ライターさんがいるとはいえ、わたしにはノンフィクションで活躍している編集者のような取材力はない。それまで何冊か聞き書きのビジネス書をつくっていたから、話を聞くための、いわゆるテクニックは知っていた。だけど、そんなものが、いったい、なんの役に立つのだろう?

かさぶたができかけの心の傷を、取材者はこじあけていいのか?

地下鉄サリン事件被害者の会代表の高橋シズヱさん、被害対策弁護団事務局長の中村裕二先生のおかげで取材を承知してくださった方ばかりとはいえ、口にしたくないこと、忘れたいことを、初対面で話してもらうのだ。かさぶたができかけの心の傷を、こじあけるのではないかと、おびえた。

傷パワーパッドは登場しておらず、ネットもまだ今ほどメジャーでなかったあの頃、テレビも新聞も週刊誌も、取材はかなりアグレッシブだった。玄関チャイムを鳴らして、ちょっとあけたら靴を差し込んでいきなりマイクを突き出すような局もあったそうで、「マスコミの取材は二次被害だ」という話をずいぶん聞いた。また、「あらかじめ、こういうお涙頂戴のストーリーにしたいという意図が取材側にあって、それに沿うように自分の話をねじ曲げられた」と憤る方も複数いた。

泣かせる言葉も、感動の言葉もいらない。

未曾有の大きな事件だから、確かにテレビや週刊誌はしばらくその記事だらけだったし、ジャーナリストが書いた事件の本は何冊もあった。村上春樹さんの『アンダーグラウンド』も出た。そんななか、どうみてもわたしたちのチームは力不足だった。せっかく被害者自身が著者になるというのに。

案の定、取材の場で詰まってしまったり、涙をこらえて相槌をうつことしかできない日も多々あった。そんなとき、逆に気遣ってくださったり、「お昼時だから」とお寿司をとって迎えてくださったご遺族もいた。関係ない話をして、笑いが出たこともあったと思う。

そうやって何人もの方に会っていくうちに、気がついた。編集者としてでなく、素の自分として対峙するしか、やり方はないのだ。聞き方のテクニックも取材のコツもない、手ぶらの、未熟で低スペックの自分のままで。

上手な文章が心を打つという嘘。

いっぽう、ご自身で書いてくださった手記は、びっくりするほど完成度の高いものもあれば、素朴なものもあった。でも、誤字脱字をひろう程度で、いわゆる「リライト」はいっさいしないと決めた。読みやすい文章、心を打つ文章、嫌な言い方をすれば「泣かせる文章」にちょこちょこっと加工することは、わたしにだってできた。スペックが低いとはいえ、いちおう編集者なのだから。

でも、それをしたら、「ねじ曲げるマスコミ」の列に加わることになる。当事者が、当事者として書く手記。そのままのものを残すことが、自分にできる唯一の仕事なのだと、あの頃は毎日、考えていた。つらい気持ちをこらえてみなさんが手記を寄せてくださったのは、「事件を忘れないように次世代に残す」という強い気持ちに他ならない。自分の気分でへんな加工を施して、その邪魔をしてはならない、と残業しながら考えていた。

忘れないために言葉はある。

noteを使う人には、うまい文章を書けるようになりたい人が多いし、そのための素晴らしいアドバイスもたくさんある。確かに仕事やメールに「上手」は必要だし、わたしもそう書ければなと思うけれど、実は「上手」って、文章のスパイスであって、まんなかではないと思う。事実、素朴な手記であっても、子どもの作文であっても、繰り返し読みたくなる、忘れられないものがいくつもある。

『それでも生きていく』というタイトルで発売された本は、98年当時はずいぶん取り上げられたし、読んでいただいたが、年月は何もかもを押し流す。すべてはどんどん、遠い出来事になっていく。若くてへなちょこだったわたしは、へなちょこの中年になった。

でも、年月だけが理由で忘れてしまうのは、怖いことだ。いくら年月が経っても、「なかったこと」にならないこともある。そして、忘れないために本はあるのだと思う。

わたしは東京大空襲も原爆投下も知らないが、悲惨で二度とあってはならないことだと知っているのは、本を読んだり映画を見たりしたからだ。地下鉄サリン事件が起きた時、子どもだった人や生まれていなかった人に、電子書籍で残っているこの本を読んでいただけたらと思う。

事件発生12年の時に編集させてもらった私家版の手記集で、高橋シズヱさんはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの言葉を引用している。

Our lives begin to end the day we become silent about thing that matter.  
私たちの人生は、重要なことに口をつぐんだ日に終わりへと向かう。

いろんなことはあるけれど、終わりへと向かうには、みんな、ちょっと、早すぎるんじゃないかな。

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