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母が自転車を降りた日

母の日。
世界中のお母さんへ感謝をしたい1日でした。
ふと、母が買い物で使っていた公園の脇道の新緑の眩しさに、とうの昔、自転車に乗って買い物に出かける母の姿を思い出しました。
母はいつから自転車に乗っていたのだろう。
私が自転車に乗れる頃には乗っていたかもしれない。
今ではママチャリと呼ばれる自転車に乗って、春歌秋冬、季節を幾重も巡り、自転車に乗ってあちこち奔走していた母。
パートへ出かけ、オイルショック時代はトイレットペーパーだのを荷台に何個も括り付け、ヨタヨタと自転車を漕ぐ母の姿を何度見かけただろう。夏の帽子を被った母、雨合羽を羽織った母、真冬の空っ風の中の母、桜吹雪を颯爽と漕ぐ母。たくさん自転車に乗った母を見てきた。
その時は特に何も考えず、あ、お母さんだ、くらいに思っていた。
うちの母は怖い人だったので、外で会うのがなんとなく億劫だった。
だから、自転車に乗った母の姿を見かけると、不意に物陰に隠れて見過ごしている自分がいた。

ある日、自転車の前も後ろも乗り切らないほど乗せて、自転車を引いていた母に遭遇。重たいから押してってよと頼まれた。なんか嫌だなあって制服姿の私は高校生だったと思う。
週刊朝日の表紙のオーディションに有楽町朝日新聞本社に一緒に行った頃で、母のおしゃべりは篠山紀信さんの目力が凄かったとか、女性大生ばかりで受かりっこないよとか、そんな他愛もない会話だった。私はパッとしない娘で、母にとって鈍臭い少女に映っていただろう。

そんな私はいつの間にか女優になって、世田谷で夫となる人と2人で暮らすようになった。母は泊まりがけで遊びにきたがっていたが、それを面白くない顔で父がいつも制していた。

ある日のこと。
世田谷の家の近くにあった焼肉双葉という店を食堂代わりに通わせてもらっていた。在日2世のお母さんは働き者で、この人もよく自転車に乗って店と家と買い物の行ったり来たりをよく見かけた。母と遭遇する時とは打って変わって、このお母さんに出会うことが私の日課であり、楽しみだった。私は母との行き来が父の顔色伺うことで消極的になっていた。しまいには、そんな父といつまでも一緒にいる囚われた母を煙たがるようになった。ある時、そんな私に焼肉双葉のお母さんが、「そうはいってもね洞口さん、母親って、子供がいくつになっても母親なのよ、子供が成長してもね。だからお母さんに会いに行ってあげなさいな」とよく諭された。

ある日、母を訪ねて実家に行ったら、自転車がさびれていた。
それから母はまもなく、脳出血で倒れた。喋ることもできないでいたがリハビリの甲斐あって元気になった。でも認知障害になってしまい、父も他界し、今では車椅子生活要介護のため施設で暮らしている。

母が乗らない自転車は寂しそうに壁際に寄りかかっていた。
まもなく、焼肉双葉のお母さんも、店を閉じ、最後に自転車で帰ってゆくのを見送ってそれ以来自転車から降りたという。
双葉のお母さんの自転車も壁際に寂しそうに寄りかかっていた。
乗る人を失った自転車たちは、やがて壁際からも消えてしまった。
双葉のお母さんは今春天に召された。
うちの母は施設で車椅子に乗って元気でいる。

母が自転車を降りる日がまさか来るとは、あの頃は思いも寄らなかった。

そんなことを新緑の眩しさの中に回想した5月の母の日。


※写真は双葉閉店最後に自転車で去ってゆくお母さんの後ろ姿


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