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読みはじめてしまった。

「図書館の魔女」
高田大介

まさに「しまった」だ。

児童書の中でも、ゲームカードの絵柄のような、ドラゴンとかが宝石持って渦巻いちゃってるような表紙のシリーズ物が好きだった小学生の頃の私。
ファンタジー寄りの中二病を、幸い早めに発達した理性で黒歴史として扱うよりは美しい思い出としてまとめられたと言い切れなくもない、と信じたいところだが。発散しそびれた副産物か、やはり人間の趣味嗜好など三つ子から変わりようもないのか、「超弩級ファンタジー」や「権謀術数渦巻く外交エンターテイメント!」などコピーのつけられたこの小説にときめかない訳がなかった。

昨今の高騰する文庫価格に怯える一回の女子大生であるからして、4冊に分冊されているのはご承知おきで、「気にいるか分からんしとりあえず一巻」買って帰った。
(その日の夜Twitterで、尽く同じコンテンツにハマる友人が「めちゃくちゃ面白かった」と私的タイムリーに呟いているのを発見して、自分が判断を誤ったことを確信したのだが。)

一巻を読み終わって絶望した。
無論、今すぐ二巻を読めないことに。

課題も全部出し終わって、バイトもなくて、できれば顔にニキビもないような後顧の憂いが全く無い日に、全巻積み上げてソファーから一歩も動かずひたすら読み漁りたい本だ。

全力で書いてある。だから全力で読みたい。

一文一語たりとも読み逃しを許さないと言わんばかりの描写量。一つ一つを噛み締めながら映像に起こさないと情景が見えない。
読む側を疲れさせるまでの言葉選びがあってなお、それが故に引き込まれる。斜め上からその場を見下ろすように、時に登場人物の肩口から覗き込むように。電車に乗っているのに、図書館のひんやりとした空気の中で物語を”観て”いる。

「頬杖をついていた」と書けば済む話だ。それを『卓上に左の肘を付いて、たたんだ腕の先で手首を返して、手のひらの親指の付け根に華奢なあごを預けて、残りの指を頬に添わせていた。』と書くのだから、言い回しフェチなきらいのある私は思わず笑顔になってしまう。
文章の律動も良い。どれだけ難解でも、リズムが示されていれば作者の意図を読み違える可能性が減る。
図書館の魔女がキリヒトに望むことは、作者が我々読者に投げかける挑戦と慈愛に相違ないのだろう。

一つ一つを自分の中に落とし込んで読む。そうでなければ置いていかれる。置いていかれたら初めから読む以外に戻る手立てがないのでは無いかと思うほど。
自分の解釈を積み上げる必要はない。
全部書いてある。書いてあることを逃しさえしなければ、読む全員が同じ情景を描ける。

先程挙げた頬杖の話に戻るが、確かに頬杖の付き方だって色々ある訳で。手の甲に頬を預けたって、両手で作った台形に顎を乗せたって、それは頬杖なのだから、1つを選び取るなどできっこない。

この本の唯一無二性はここにあると思う。
情報量、プロットの緻密さ、エンターテイメント性。そんなものはこの小説の前に些細だ。
「読解」ではない。ただ「読む」ことだけに没頭できる。
だから物語に浸りきる。これ以上潜ってはいけないという恐怖心すら抱かせず、ただ真っ直ぐに逆さまに水を蹴る。自ら進んで溺れてしまう。

ああ、読み始めてしまった。


俗なことを言うと、心の底からアニメ化して欲しい。そして自分が描いた情景と答え合わせをして1人でほくそ笑みたい。

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