見出し画像

【50代の大学生日記 第47話】かしもんやってなにもんや?

 祝 阪神タイガース 38年ぶりの日本一!
38年前、私は下宿にテレビがなかったので、名古屋出身でドラゴンズファンと、タイガースには縁もゆかりもない小林くんの下宿でテレビ観戦してました。小林くんは今も昔もタイガースなんてどうでもいいと思っていることでしょう。タイガースが今後38年間日本一にならないとすると、次の日本一のとき、私は96歳。まあ生きてないでしょう。38年前、48歳だった私の父は、阪神優勝にかこつけて飲み歩いていたことでしょう。しかし、結局、生きているうちに再びタイガースの日本一を拝むことはできませんでした。合掌。私は長生きしそうにはないので、38年後とはいわず連覇してほしいものです。

 さて、私は書道用品店でバイトをしています。店でお客様の応対をするだけなら、私のような人相の悪いおっさんをわざわざ雇うメリットはなく、公立高校(たいていエレベーターがない)の書道教室(たいてい3階か4階にある)へ大量の紙や墨液を納品に行くときだけ単発で力自慢の若者を雇えばいいようなものですが、書道用品店にはそれ以外にもあまり知られていない肉体労働がけっこうあるので、私のようなパートのおじさんも飼われているのです。
 展覧会の会場へ額装の作品(幅60cm×高さ240cmが主流)、軸装作品屏風などをいくつも持込んで、脚立に乗って、作品を吊り下げるフックを取り付けて、作品を吊り下げたあと高さを調整して、ときにはライトの調整までしたり、逆に展覧会が終わったあとで作品を撤収する作業も、額装軸装をした表具屋さんや、そのブローカーである我々書道用品屋さんが請け負っており、芸術の秋であるこの時季は、そっち系のお仕事が忙しくなります。
 京都のそのようなお仕事の現場では、「かしもん屋はん」と呼ばれる人たちと一緒に仕事をすることがあります。「かしもん屋はん」は美術館の展示スペースの真ん中に屏風を飾る台や、掲示物を貼る壁などの大道具を持ち込んで大工仕事で組み立てたり、机や椅子を並べたりするだけではなく、受付や即売場などのディスプレイなども依頼すればやってくれます。つまり「かしもん屋(京都の方言)」「貸物屋さん(かしものやさん 〇貸物 ×貨物)」のことで、全国的には「レンタルリース業」と呼ばれるているお商売です。

軸装の作品

 私は京都の会社に長年勤めていましたが、「かしもん屋」という商売は聞いたことがなく、小売業界の専門用語なのかと思ってましたが、ネット検索してみると、京都には「〇〇貸物店」という屋号のお店さんや、今は改名しているけど以前は「〇〇貸物店」という屋号だった店が何軒かあります。そして、「貸物店」という屋号は京都以外では滋賀県に1軒あるだけで、他県には見当たりません。どうも「リース屋さん」と呼ばれているお商売のことを京都では「かしもんやはん」と呼ぶようです。
 文献(*1)によると、リースレンタル業という単語は1960年代後半に登場したもので、その前身は江戸時代に江戸、京、大阪で出現した、葬儀用品や祭礼用品、芝居道具、ふとんなどを貸し出すお商売だそうです。貸本屋さんや貸しふとん屋さんや、今も太秦あたりにある映画用の小道具屋さん(書道用品店にとっては撮影用に書作品を巻物に仕立てたりする仕事の依頼をいただくお客様です)のように専業化していった業種もありますが、多くは「なんでも貸します」萬貸物屋(よろずかしものや)として発展し、その後現在のレンタルリース屋さんになっていったようです。レンタル屋さんって、意外と古くからあるお商売だったんですね。
 余談ですが、江戸時代、物流を担った荷車は、車を引く車夫の持ち物ではなく、多くは車借と呼ばれるレンタカー屋さんが貸し出していたのだそうです。京都の「車屋町通」車借が何軒も集まっていたから、車屋町と呼ばれるようになったと言われています。

天正の地割前
天正の地割後

 ちなみに車屋町通は平安京の頃からあったわけではなく、豊臣秀吉「天正の地割」(上の図のように平安京の道の碁盤の目は、目が粗く、通りに面しない空間は空き地のまま活用されていなかったので、真ん中に新たな通りを通して土地を有効活用したという改革)でできた通りだとされ、車借という商売もその頃から発展しはじめたお商売といえるでしょう。
 まとまりのない展開でしたが、今回は京都の「貸物屋さん」のお話しでした。ではまた。
(*1)参考文献
 水谷謙治『物品賃貸(貸物)業の創成に関する研究』立教経済学研究第62巻第4巻、2009年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?