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【すべらない文字】ガス代

『人志松本のすべらない話』を文字にしてみても、やっぱりすべらないのかを試みる文章実験です。話に出てきた事実は曲げず、不必要に情報を足さず、しかし解釈を加えて、話芸とは異なる文章ならではの面白味を追求してみました。

その夜、僕はいつものように後輩と酒を飲み、いつものように家路に着いた。いつものように郵便受けのダイヤルを回し、チラシなどの不要な郵便物を手に取ると、ある一枚の紙が目に留まった。見慣れない紙。送り主は「東京ガス」だった。

「ガスが止まります」

最近、引っ越しをしたばかりだった。転居の手続きをきちんと済ませ、ガス代も以前のように銀行口座から毎月引き落とされている。ただ、転居した直後の最初の月のみ引き落としではなく別途払い込みをする必要があったらしい。

僕はそのことをすっかり忘れていた。そこで届いたのが件の紙。「初月分をいついつまでに払い込まないとガスを止めます」と、急を要する通知だった。

コンビニ払いは不可。払い込むには指定された場所に足を運ぶ必要がある。酔いが回りながらも意識ははっきりしていた僕は、そのガス代を払い込めるタイミングは仕事の都合も考えると「明日の朝しかない」と思った。

通知書を手に、慌てて部屋に入った。明日持参するのを忘れないよう財布の中に入れた。ただ、財布の中にしまったら、払い込みにいくこと自体を忘れるかもしれない。とはいえ財布の外に出したら出したで、やはり紙を家に置き忘れて出てしまうかもしれない。さて、どうする。

そこで固定電話の横にあったメモ用紙を一枚ちぎり、ボールペンで「ガス代忘れない」と書いて、テーブルの上に財布で押さえておいた。酔いから目覚める未来の自分への手紙。これで安心だ。僕は気分よく布団をかぶった。

朝。目が覚めると、妻が一足先に起きていた。

「おはよう」

その声色には、どこか棘があった。その感じは何だ、と訊いても「別に」。やはり様子がおかしい。

物言いたげで、しかし言おうとしない妻。困り果てた僕は「なんやねん」と食い下がった。彼女は呆れた様子で「昨日はお楽しみだったんだね」と、意味の分からないことを口にした。そしてわが耳を疑った。

「ガスヨって誰よ」

が、ガスヨ? ガスヨって誰よ。逆に教えてくれ。ガスヨ、ガスヨ、ガスヨって誰よ。

あ。

ガス代か。もしかして「ガスダイ」を「ガスヨ」と読んだのか。よそで出会った女の名前を「忘れない」と僕が書いたと思ったか。この僕が、酔っぱらって帰ったとはいえ、女の名前を、ボールペンで、メモ用紙に書いて、わざわざ君の目につくところに置いたというのか。「ガスヨ」という名はさすがに無理がないか。

「ばっかじゃないの」

いえ、そうではないのです、これはガスヨではなくガスダイと書いたのです。明日その、ガス代がその、払い込みがその。濡れ衣であると咄嗟に釈明できれば、どれほど良かっただろう。

予想外の角度から繰り出された妻のパンチを僕はよけることも、ガードすることもできなかった。まともに食らって、よろけてしまって、感情をうまく言葉に乗せることができなかった。そのまごついた様子は、ますます妻の怒りの炎を燃えたぎらせたはずだ。そのガスは可燃性だからだ。

ガスヨ。忘れられない名だ。


【以下、放送時の書き起こし】

えー、これほんとちょっと前の話なんですけど、あの、後輩とかとお酒を飲んで家に帰ったんすよ。

で、家に帰ったらいっつも下の郵便受けであのダイヤル合わせて郵便物とか取るんですけど。ま、無駄なもん入ってますけど。一個、ガス、東京ガスからの紙が来てて、普段見ない紙で開けてみたら、あの、「ガス止まりますよ」っていうの来てたんですよ。

ほんで、あの、後から分かったんすけど、最近引越ししたんですよね。で、いっつも振り…引き落としになってたんですけど、最初の月はなんか「払い込んでください」っていう、そういうのがあるみたいなんですよ。

で、僕それを忘れてて、最初の月の払い込みだけ忘れてて、ずっと引き落としになってたんです。でもその最初の月の分が払い込まれてないんで、「ガス何日までに払い込まんと止めます」っていう紙やったんです。

それで酔いながらも、これもう「あ、払えるんは明日の朝ぐらいしかないわ」。なんかコンビニでも払えない、ちゃんとそこに行かなあかんやつやったんで、部屋に慌てて戻って、それを財布の中に入れまして、「あ、これ入れたら忘れるかもしれん」「でも出してたら忘れるかもしれん」って思って、あの電話の、家の電話の横にあるメモ用紙をちぎって、あのボールペンで「ガス代忘れない」って書いて、テーブルの上に財布で押さえといたんです。ほんでそのまま寝たんですよ。

で、朝起きたら奥さんがもう先起きてて、「うん、や、おはよう」って言うたら、なんか普段とちゃう感じなんですよ。「おはよう」みたいな感じで。

「え、なにその感じ」って言うたら「え別に」。「いえ、違うやんそれ言うてや、なんやねん」言うたら「昨日、お楽しみやったんだね」みたいなこと言うんですよ。全然意味分からないじゃないですか。「いやいや、なんやなんやねん」言うたら…、マジっすよ。

「ガス代(がすよ)って誰よ」

えー!(一同笑)

マジっすよ。それでも分からないから、ガス代が誰かが分かんないから…

「ガス代忘れないっていう」(松本)

そうですそうです。ガス代(がすよ)言われても分からないすから「誰やねん」言うたら、

「分からんかったんや」(松本)

全然分からないですよ、ガス代(がすよ)って誰や、そんなふわっとした名前分からないですよ。「いや誰や」

気持ち悪い名前ですし、「誰やそれ」言うたら、その紙を自慢げに出して「ばっかじゃないの」言うて。それでも紙が分かんないんです。

で、それ見てもうなんかふわっと分かって、説明が、するのもなんか怖いじゃないですか。

(一同笑)

もうなんか、なにが起こりすぎて全部がもう…

(一同笑)

「なんや、その感じ」って。折り合いが、感情の折り合い兼ね合いが…


出典:
『人志松本のすべらない話 ザ・ゴールデンSP5』
「ガス代」ほっしゃん。
(2009年6月27日放送)

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