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鬼の住処

息子の成長が日々頼もしく、世界が広がり知見が増え表現力が豊かになってきました。子を待つ親の親バカさはあるべき姿なのでご容赦ください。


子育てという枠に一括りにしてしまうといささか違う気もするけど、子供が泣いたり喚いたりした時に感情を整理させ、現状を理解してもらい、物事の本質を伝えるってつくづく難しいと思う。


もちろん子育てに正解や不正解はなく、それぞれの親の考え方がそれぞれの個性を育むのであり、それらが社会の根幹であることは前提として。


お片付けして欲しい時、みんなでご飯を食べる時、お出かけの支度をする時に、最近ではいろんな場面においてなぜそれをして欲しいのかの理由とそれをしたことで得られる未来を想像させて伝えてあげることを試みています。


以前は自分自身のゆとりのなさや、時間に追われることも多く、兎角朝は戦いに近い時間を過ごしてしまっている。なおかつ夫婦共働きであり、保育園の準備や息子の着替えや自分の身支度や家事にと、分業制をしているので、今となってはある程度の時間的感覚が掴めるようになってきてはいるものの、やはり忙しない。


以前どこかの誰かのサイトかブログかで拝見した、『鬼とかオバケを引き合いに子供を宥めることはしない』という記事を読んだ。


それでも子育てとはイレギュラーの連続である。

「ご飯食べなーい」

「保育園行きたくなーい」

「おもちゃで遊びたーい」

否応なしに今が飛び交ってきます。かつては余裕のなさから「ご飯食べない子は鬼が来るぞー」なんて言葉を多用してしまい、それをあたかも自分の正義として振りかざしてしまった自分がいました。


もちろん息子に鬼の概念があるかはわかりません。今思うと自分に一杯一杯で、心にも時間にもそして思考回路にも全くと言っていいほど余裕を持つことができませんでした。

それは裏を返すと愛おしい子供がいてその存在が生活の中心ではあるものの、自分都合の思考を続けてしまっていたのです。


鬼なんているはずもなく、ただ単に理由が欲しかったのです。ご飯を食べて、身支度をして保育園に行き、出社するという一連の流れにならない苛立ちが、なんの根拠もない"鬼"という概念的正義を持ってねじ伏せようとしていた自分都合。


時を同じくして人気の出た鬼滅の刃。

自分が発していた鬼という言葉を、この漫画を通して深く考えさせられました。


主人公は仲間と共に、鬼にされてしまった妹をもとに戻して鬼のない平和な世界線を望み立ち向かっていく。

そこには何度打ち拉がれようとも、何度挫折しようとも自分の描くビジョンがそこにはあり、ビジョンの中から生まれたミッションが存在して、そこに自分の価値が生まれる。


子育てももしかすると、このビジョンやミッション、そして価値(バリュー)が必要で、これがないからその時の自分の背景や立場にかまけて、頭ごなしに概念でねじ伏せようとしてしまうのでは。


もちろん子供にはビジョンやミッションなんてものは理解することはほぼ難しいが、親として何を大切にし、どういう未来を描くのかの指針は、とても重要だと気付かされました。


そんな綺麗事では済むこともないくらいに、圧倒的に否応なしに子育ては迫ってくるが・・・


子供と向き合う日々にふと、これは仕事にも日々の生活にも同じことが言えるのではないだろうかと。


仕事のビジョンって何だろうか?

我々夫婦のビジョンって何だろうか?

子育てのビジョンは?


世の中は概ね予測不可能な事態の連続だ。


コロナ禍も、天災も、子育ても。歩み出す明日の扉さえも。


だからこそ人は自分の中の指針が必要なんだと。


仕事は何のためにするのか?仕事をしたからどうなるのか?そのことでもたらされることとは?日々の生活は?


ミッションという意義や理由が、人を動かし、心を強くする。

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鬼という概念はもしかしたら自分の心の中にある、もう1人の自分なのかもしれない。



息子よ。自分も親として成長させてくれてありがとう。










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