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「死人に口なし」考

ジム帰りにドトールで朝活タイム。
片手にコーヒー、片手にスマホで階段を上がり、スマホをポケットに突っ込んで、空いた片手でグラスに水をくみ、席へ。
両手両足をふさいで歩きながら、人間てすごい芸当だなと思った。

体内では血液が自動保温、自動循環し、カフェで席と席の間を縫いながらも、外界環境と全く異なる内面の営みができる。
日が昇るにつれ、ホルモン状態は変化し、胃腸は昼の活動を自律的にはじめる。

朝食を食べるもよし、食べずともよし。

自己という魂的な意識と、感覚器官からの体的な体験を同時にもてる存在、それが人間。

言葉は、魂と体、どっちに属すると思う?

その答えに納得するには、魂と体、どっちも使ってみないとわからない。

死人に口は、ないのだろうか。

「死人に口なし」は、言葉が体に属している世界観をもつ。

わたしはいつも人の目を直視しないけれど、昨日は珍しく、さめじまみおのキラキラEYEを見て、こう言った。

「言葉は、体から絶対的に自由でなければならない」と。

絶対的に。
つまり無条件に。無制限に、まじりけなく。

そのように発すると、言葉は左右の相対機能を持つ脳の制限を超え、思い、考えた方向へ彫塑化される。

もし言葉が、唸り声から人の言葉へと独立することを目指していないのなら、人間はこんなに苦労して直立する必要がない。
腰痛だって肩こりだって、尊い進化の過程なのだ。

じゃあなんでわたしはいつも、反対に言葉を体に入れる、体に結びつけるオイリュトミーをやっているのか。

それは、単純な話、結ばなければ開かないから。

人とつながるには、孤独から始まる。
何かを欲するには、手放した状態でないと得られっこない。
だから脳は、有ると無いとの両極の機能を持つのだ。

水が、「わたしは水だ!」と叫ぶには、大海から飛び跳ね、光を浴びて我が身に世界を映してみないとわからない。

ある人はいう。お前は、雨だと。
ある人はいう。お前は、小便だと。
ある人はいう。お前が、大切だと。
ある人はいう。お前が、疎いと。
ある人はいう。お前は、H2Oだと。
ある人はいう。お前は、冷たい氷だと。
ある人はいう。お前は、水蒸気だと。

降ったり飲まれたり出されたりするまでは、気にもされない。
それだけの存在であると。

あなたは、誰だろうか。
その身に何を映しているだろうか。

水が、「わたしは水だ!」と叫ぶ時、その言葉は、なにひとつ具体的な体を示さず、かつあらゆる具体的な体を包摂する。

この非具象の存在と具象への確率を、蓋然性と可能性と呼ぶ。

具体的な体でない時、わたしたちは死者の体をなす。

人間が「わたしは誰か」を知る時、その言葉は、なんにひとつ具体的な体を示さず、かつあらゆる具体的な体を包摂する。

自分と他人という分離状態において。
過去と未来という時間の流れのなかで。
「わたし」は、あらゆる具体的な体を包摂する。

自己の本質がすべての可能性を包摂する非具象だとして、そのことを表す完全独立の言葉をもつとして、じゃあ、いまのこの肉体って何なの?って話になる。

死者の体ではない、生きた体。
生きた体は、死を本能的におそれる。


生きた体は、きっと人の数だけ生きている目的があるのだろう。
いろんな欲望も、快楽も、苦痛も。
具体的な体験がそこにある。


わたしが生きている目的は、この生きた体が、言葉から編まれたものだと知るためにある。

無の世界、死者の言葉から、有の世界、生者の世界は生まれる。
大地も、草木も、虫も、内臓も、組織も、酵素も、心も。

体験の感覚器官を編むものは、感覚を超えた存在だ。

途方もない話だけれど、死者の言葉を、生きた体で発するために生きている。
それは、死者からのメッセージとか、天啓とか、そういう類のものではなく、人間の生理そのものが死者の言葉であり、同じ法則で成り立っている。

生きている体験そのものが、死者の言葉であるようなところまで生きてみたい。

そのリアリティは、どこからも借りてこれない。
だから今日も、そのリアリティで自分を生きる。

みんなは、どんなリアリティをつくって生きてるのかなあ?

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