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「ギフテッド教育」はするな。

【「ギフテッド教育」とは】
最近流行っている言葉の一つに「ギフテッド教育」がある。要するに、天賦の才能を持っているこどもを特別にその能力を伸ばすように教育し、その持っている能力を高め、より社会にとって益のある人材に育てよう、ということだ。なるほど、聞けば非常に有益なことだと思うのだが、それを受け入れる社会のほうはどうだろう?

【「ギフテッドであるかどうか?」は、その時々の社会が決める?】
「ギフテッド」と言われる子どもたちの中には、特に数学に強い子、音楽の才能のある子、などが想定されているが、戦争ばかりの世の中であれば、殺人の得意な子だっているかもしれない。であれば、そのときの社会はその子の特異な才能を受け入れるだろう。あくまで極端に言えば、だけどね。

【「天から授かったもの」は今の人間にわかるものだけではない】
また「天賦の才」と言っても、まるで現代の社会人には理解できないところに特異な才能を持つ子だっているかもしれない。その時々の社会の多くの人が全く理解できないけれど、すごく人類に役に立つものを持っている、というのであれば、その時の社会はその子の持つ才能をわからないから、その才能を才能と認めない、ということだってあるかもしれない。いや、おそらく、前項の極端な例外よりも、このほうが多い可能性があるんじゃないだろうか?

【今は役に立つけれども】
また、今その子の才能はすばらしいもの、と思われているものが、その子が大人になる頃には、全く役に立たない、とか邪魔だ、というものだってあるかもしれない。世の中は時間とともに変わっていくからだ。

【「人間はなんでもわかっている」わけではないから】
実は「ギフテッド」とその子に対する教育というものの問題は「人間がやることはすべて他の人間がわかっていることだ」という、人間自身の「奢り」、あるいは「自信過剰」によるものかもしれない、ということころにある。少なくとも、そういう自らの知性に対する謙虚さは、持っていたほうが良いと思うのだが。

【この社会で生きていくためのちょっとした知恵をこそ教えよう】
むしろ、子どもたちがどんな可能性を持つことになるかわからないのだったら、ギフテッドとそうでない子を分けて教育するのではなく、「ふつうの人」がたくさんいるこの社会でいかに自分の才能を潰されずに生きていくか?というノウハウを教える、という程度にするのが良いのじゃないだろうか?と、私は思うのだが。

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