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とあるプログラムを家族と共有しようとして

機会があり、とあるプログラムを受講した。
「社会は少数派に配慮しているのではなく、実は多数派こそ特権を持っているのだ」という問題提起を通して「他者のためにあるとはどのようなことか」考えさせられるものであった。

非常に興味深い内容で、とても共感し、終了後すぐに家族の一人に話そうとした。
しかし彼は、順を追って話そうとする私の例示に「そんなことはわかっているから、結局何が言いたいんだ」と結論を急ぐ。
結論を急がされて言葉に詰まり、私ははたと気がついた。
そのプログラムの主旨は「○○だから××しようね」というものではない。
そうではなくて「○○であるとして、では自分はどうあるべきか」を考えるものであったのだ。
したがって「〇〇である」部分すべてをすっとばして「だから何」と聞かれても、実りある話もできない。

もう一人の家族にも話した。
彼は私の話をひととおり聞いた後で「そこにはひとつ、視点が欠落しているのではないか」と指摘した。
しかしそれは、単に私が端折ってしまっていたもので、そこを説明することでさらに話を進めることができた。

前者は管理職となり部下からのレクを受けることに慣れてしまった者の性なのかもしれない。昔はそうではなかったから。けれど、「あなたと私の間にそんな上下関係があるんですね」と思うと少し寂しいものがある。社長の話を聞くときにはそうは言わないだろう。

話は変わる。
そのプログラムの中に自分の経済的な生育環境にかかわる要素を点数化して合計するアクティビティがあった。
説明では、児童養育施設の出身者の合計点数はひとけただという。
そのプログラムの出席者の平均は25ポイント。
私は9ポイントだった。
夫はやっていないが、あまり変わらないだろう。
次男にやらせたら18ポイントだった。通塾や習いごとがなかったことによるか。
出席者の平均年齢は私より20歳は若いのではないか。
思うに私たちは、(このアクティビティによれば)あまり恵まれていない生育環境にあって、それが固定しない半生を送れた最後のほうの年代だったのかもしれない。
言い過ぎかもしれないが。

ならば、そういう自分だからこそできる何かを社会に還元したい。

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