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蘭子考

また夢見が悪かった。

理由は分かっている。

娘がコロナに罹った。一時期高熱が出たが、ケロッとしている。逆に、ワクチン三回接種済みの私の方が、朝からひどい頭痛に悩まされている。はや、感染か。

もとから家から一歩も出られない。ひとまずロキソニンを飲んで、それでも酷かったら病院に行く段取りを取らねばと、悶々とふて寝をしていたら、宗方コーチに叱られた。

「岡、そんなことじゃ、舞台に立てないぞ」

え?なんの舞台?ウィンブルドン?と辺りを見渡すけど、ラケットもコートも無い。

どうしてそうなったのか見当もつかんのだが、文字通り舞台があり、私、岡ひろみはそこに立つ女優なのだった。

まもなく初演を迎える舞台のために、宗方仁コーチに演技指導を受けている岡ひろみ。兎にも角にも憧れの偉大なコーチの期待に応えようと、ぎこちないなりに演技してみたのだが、如何せん、事情も要領もよく分かっていないので、かなり分が悪い。果たしてこれは練習なのか、オーディションなのか、だいたいどんな脚本なのか、私、つまり岡ひろみが演じる役は誰なのか、そんなことさえ分からないまま演技を終えると、さもありなん、主役の座は別の人に決まってしまっていた。

私より、うんと若い子。岡ひろみより、若い子?こんな子いたっけと、首を捻っていると、再び宗方コーチが現れ、私の横を素通りしていった。

「よくやった、〇〇」

「宗方コーチ、ありがとうございます」

コーチは、わざとなのか、それとも全然、私、つまり岡ひろみの存在に気づいていないのか、こちらに見向きもしない。初めから私など居なかったかのように、彼女の肩を抱いて、とっとと舞台袖に消えていった。

ええ~!!私、岡だよ、ひろみだよ。主役じゃないの?!コーチぃぃ~

無名の新人に、主役の座だけでなくコーチまで奪われたらしい。

というところで、あまりの傷心に目が覚めた。

そして瞬時、「これって、蘭子の気持ちじゃん」と布団の中で確信してしまったのだった。


緑川蘭子。通称「加賀高のお蘭」。

ご存知、漫画「エースをねらえ!」の主要登場人物で、宗方仁コーチの異母妹である。

身長175センチ。今でこそそんなに珍しくないが、およそ半世紀前の少女漫画であることから、男性をも凌ぐ、日本人離れした巨体の持ち主というイメージで描かれていた。その長身から繰り出される弾丸サーブが武器で、数々の大会でお蝶夫人と頂点を争ってきたらしい。小学生の頃、髪の分け目を頭の真ん中で作って左右均等に髪量を分けることを「おまんた分け」と呼んで、ちょっとだけ蔑んでいた。由来は知らないし、調べたことも無いが、蘭子は大人なのに、重たい天然パーマの黒髪をいわゆる「おまんた分け」しており、顔も平安貴族のようにのっぺりと長いし、絵巻物の女幽霊そのもののような風貌をしていた。しゃべり方も怜悧でぶっきらぼうで、子供心に「怖いお姉さん」「男女」と毛嫌いしていた記憶がある。

その鋼のように冷徹な女傑・蘭子の、鎧を脱ぎ捨てたハートを垣間見たのだった。

ああ、彼女はこんなにも絶望的な悲壮を背負っていたのかと痛感した。

想像するに、幼い蘭子は、兄同様、早くからテニスの才能を発揮したに違いない。母の違う兄とは、一度も一緒に暮らしたことは無い。姿かたちは遠くから目で追っていた。兄に近づきたい。そう思った蘭子がラケットを握ったのは至極当然であった。

常に自分の一歩先を行く兄を慕い、兄だけを目標に、努力を重ねてきた。兄・仁も半分血のつながった蘭子を可愛がり、同じテニスプレイヤーとして時には指導し、精神的なサポートを与えてきたのだろう。ただ、一ツ家で一緒に育ったことはないせいか、堂々と「兄さん」とは呼べなかった。常に追いかけてきた憧れの人として、「仁」と名前を呼んだ。歪かもしれない、不自然かもしれない。半分だけの兄妹であって、アスリートの先輩と後輩、同じ道を行く同志である二人は、傍から見たら恋人同士より近い関係に見えただろう。

ある日、蘭子のそんな歪んだ幸せが奪われる事件が起こる。最愛の兄が病魔に襲われ、再起不能と診断されたのだ。彼は夢半ばで現役を引退せざる負えなかった。蘭子はまるで自分のことのように絶望し、苦しんだに違いない。兄の今後が、未来が気が気でなかった。じっと耐えて運命を受け入れる兄に反して、蘭子の心は散々に乱れ、大粒の涙を流し、運命を呪う言葉を吐いた。そして泥の中から這い上がる様にして、兄の果たせなかった夢を今度は自分こそが叶えてやろうと心に誓ったのだった。

ところがしばらくして、一緒に這い上がったはずの兄の関心が、余所に移っていることを知ることとなる。聞くところによると、よりによってテニス歴0年の無名の女子高生に目をつけ、そのどこの馬の骨かもわからない素人女を一流のテニスプレイヤーに育てると息巻いているという。

「コーチは心変わりしましてよ」

電話で竜崎麗香に確かめると、彼女はにべもなく言い放った。

思わず、西高のグランドへ走る。

そこには、仁に手取り足取りラケットの振り方を教わる、貧相な体の、平凡な少女がいた。

蘭子は眩暈を覚えた。天地がひっくり返ったような錯覚を覚え、兄と共に鍛え上げた見事な体躯がまざまざと地面に崩れ落ちた。

「仁・・・どうして・・・どうして私じゃないの」

宗方仁は自分の夢の継承者に赤の他人を選んだ。この残酷な現実に蘭子は打ちのめされ、その名のごとく緑色の嫉妬の炎を体中からたぎらせて、岡ひろみに戦いを挑んでいく。まるで、その身を焼き尽くすがごとく。


こうして書くと、なんて可哀想な人なのだろうか、蘭子よ。

失恋?そんな生易しいもんじゃない。

物心ついた時から半生賭けて費やしてきた、命より大事な自分のテニスを否定されたのだ。それも、最愛の兄で、信頼する同志でもあり、最も尊敬する師である人に、だ。

それは、彼女の存在自体を否定することに、限りなく近い。

兄の癖に、よくもこんな、将来有望な選手である妹を絶望の淵から突き落とす真似が出来るなと呆れるわ。テニスなんて、他スポーツに比べて、メンタルが大きく左右する競技なのに。現実的な策として、せめて蘭子のプライベートコーチは継続してやればいいものを。これじゃ完全仲間外れだ。蘭子の疎外感半端ない。西高と専属コーチ契約でもしていたのか。それとも、「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」星一徹的なスパルタ教育のつもりか。

とにかく、宗方仁という人は見た目よりもかなり軽率で未熟、自己中心的で視野の狭い人物だと、子供のころからの見方が180度変わった。

自分の大事にしているものや矜持、心の拠り所なんかを他人に軽率に扱われたり、奪われたりすると、信頼関係なんて見事にひっくり返る。

その時の衝撃は、青天の霹靂、地面がばりばりっと裂けて地獄に突き落とされるというか、顔に真水をぱしゃっとかけられた感じだろうか。あまりのショックに時間が止まったような感覚に陥るかもしれないが、心配することは無い、時間は止まっていない。その時間こそが問題を解決してくれる。貴方は悪くないのだから、いつか時が来れば、立ち直れる。

残念ながら、その人は、元来そういう人だったんですよ。貴方が気づかなかっただけで。

むしろ、解放されてよかった。目が覚めてよかった。

真水をぱしゃっとかけてくれて、どうもありがとうと思おう。


蘭子、貴女には持って生まれた才能と外国人と対等に渡り合える見事な体躯がある。

そして何より、若く、健康に恵まれている。

悔しさをバネにしろ!てっぺん、目指せ!

私が代わりに言ってやる。

蘭子、エースをねらえ!

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