TheBazaarExpress116、『ペテン師と天才、佐村河内事件の全貌』7章、貧しくても好きな道を歩む幸せ~N極・早熟な才能

・驚愕のフルオーケストラ・スコア

―――この子の才能はどうなっているんだ。小学校6年生でオーケストラのフルスコアを書いてくるとは。しかも独学で20分もの曲だ。尋常じゃないな。

1982年のとある日、東京目黒にあるヤマハ音楽振興会目黒センターで指導教官をしていた作曲家の南聡は、千葉県船橋市の教室から送られてきたある子どものスコアを見て信じられない思いだった。

この頃南は東京芸大の作曲家コースの大学院を卒業し、ヤマハと契約して子どもたちに作曲の指導するために週に何日かこのセンターに通っていた。

ヤマハでは、1972年から小学生中学生年代の子どもたちを対象にした「JOC=ジュニア・オリジナル・コンサート」を開催していた。ヤマハの音楽教室に通う子どもたちにオリジナル曲を作らせ、自分で演奏させる。その優秀作品を毎年一堂に集め、全国大会(海外からの参加も含む)も開かれていた。

それらの応募作品は、通常は南たちが指導する「特別クラス(優秀な子どもたちに特別な音楽教育を施すコース)」から生れてくるのが常だった。例えばそこには、のちショパンコンクールで3位となるピアニストの横山幸雄や、世界的な作曲家として活躍する望月京たちが集っていた。

だが南が手にしたのは、普通の音楽教室に通う子どもの作品だった。船橋の教室の先生はピアノの専門だから、作曲は独学で学んだに違いない。

なにより南が驚いたのは、その楽譜の内容だった。普通ならこの年代の子どもたちは、オーケストラ曲とはいっても演奏するのはエレクトーンだから、せいぜい3段程度の楽譜を書いて部分ごとに「フルート」や「ヴァイオリン」と楽器を指定しているものだ。

ところがこの楽譜は、弦楽器、管楽器、打楽器などに分かれて10段を越えるフルスコアで書かれていた。まだ自分では手にしたこともない楽器も多いはずなのに。

しかも20分を越える曲の長さも特筆ものだった。子どもの場合、楽譜上の時間の流れと実際の時間の流れのギャップに戸惑う場合が多い。演奏すれば数分の曲でも楽譜を書くのには何日もかかるから、長い曲になるとその日と次の日で気分が変わってしまい曲が成立しなことも珍しくない。

作風としては、明らかにベートーヴェンの影響が感じられた。おそらくCDを聴きながらスコアを見て、その書き方を学んだに違いない。

―――いったいどんな子なんだろう。

そう興味を持ったことが、当時小学校6年生だった新垣隆との出会いだった。

新垣が当時を振り返る。

「あのころはまだ弦楽器とかは弾いたことがなかったですから、あてずっぽうで書きました。ただ、すでに『管弦楽法』(ウォルター・ピストン著)というような本は楽器屋さんで買って眺めていたんです。船橋の音楽教室の下が楽器店だったので。3800円もしましたが、自分のお小遣いで買った記憶があります。あの曲を作っていたときは、ベートーヴェンをイメージして、確か隣に『ピアノ・コンチェルト3番』の楽譜を置いて真似するように書いていました。ベートーヴェンの時代の50人規模のオーケストラをイメージしていたと思います」

新垣隆は、1970年9月1日、東京都清瀬市の団地で生れた。父は茅場町の証券会社に務める進盛。母は玲子。4学年(3歳)上に兄の茂がいた。

父は証券会社の調査部に務め、家に帰ると牛乳ビンの底のような分厚い眼鏡をかけて本を読むのが趣味だった。母は、銀行のパートに出たり保母を目指して勉強したりする日々。兄は小学校のころから野球やプロレスが大好きで、いつも弟の隆を子分のように連れ廻していた。どこにでもある平凡な4人家族の風景だ。

唯一音楽に繋がりがあったのは、昭和13年生れの母玲子の少女時代の戦争体験にあった。

―――どこかで耳にしたあの曲を自分で演奏してみたい。

そのメロディは、19世紀のポーランドに生れ、独学で作曲を学んだテクラ・バダジェフスカの作品「乙女の祈り」だった。彼女の作品は第二次大戦で散逸してしまい、この曲以外はほとんど伝えられていない。日本には明治期に教則本として楽譜が伝わり、以降ピアノレッスンの定番であると同時にオルゴールの曲としても広まった。

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