TheBazaarExpress90、『ペテン師と天才~佐村河内事件の全貌』~9章、二つ目の三角形の完成、障害児とのかかわり

・お仕事は作曲家です

「はじめまして。佐村河内守といいます。守さんのお仕事は作曲家です。一緒に送ったDVDを見てくださいね」

2009年の初夏のこと。千葉県某市に住む大久保家に、一通の手紙が届いた。宛て先は、小学校3年生の長女、みっくんになっている。大きな封筒には、何枚かのDVDも入っていた。手紙はこう続いていた。

「守さんはみっくんだけのピアノ曲『左手のためのピアノ曲』を作曲してみっくんにプレゼントしたいです。世界でただひとつだけの、みっくんのためのピアノ曲です」

突然届いた知らない人からの手紙に、みっくんと両親は困惑した。

―――なぜ我が家にこの手紙が届いたのだろう。

その理由は、同封されていた両親宛の手紙に書かれていた。

「作曲家兼ピアニストの自分から見ると、自分の意志で義手の指が動かせたとしても、お客様が感動するようなピアノの演奏をするのは難しいのではないかと思います。だったらわたしが、みっくんのために左手だけのためのピアノ曲をつくってプレゼントします」

先天性四肢障害を持つみっくんは、その年の6月に、『夢の扉』というテレビ番組に出演していた。番組の中で、大学の先生が作ってくれた5本の指がばらばらに動く新しい義手をつけてピアノの演奏に挑戦した。

本来みっくんが習っていたのはヴァイオリンで、ピアノは後から習うようになったものだった。けれど佐村河内は偶然その番組を見たので、みっくんはピアノを習っている子どもだと思って手紙を書いて近づいてきたのだ。

封筒に入ったDVDには、コンサートの様子とテレビ番組が録画されていた。

2008年9月1日に「G8議長サミット記念コンサート~広島から世界へのメッセージ」で、広島交響楽団によって演奏された「交響曲第一番HIROSHIMA」。

2008年日9月15日、その模様を中心に構成された筑紫哲也がキャスターを務める「NEWS23」(TBS)で流された「音をなくした作曲家、その闇と旋律」。

それらを見て、大久保家の4人は驚いた。

佐村河内は40代の作曲家で、「交響曲第一番HIROSHIMA」という曲や、たくさんのクラシック曲を書いている。それでいて30代の途中から耳が聴こえなくなってしまった聴覚障害者だという。番組の中では「現代のベートーヴェン」と紹介されていた。

佐村河内はここでも、テレビ番組という「権威」を纏って嘘を語ったのだ。

だがそんなからくりは大久保家にはわからない。DVDを見たみっくんは素直に、「耳が聴こえないのにこんな難しい曲を作曲するなんてすごい!」と思った。ヴァイオリンは4歳から始めてすでに5年以上習っていただけに、その曲のスケールや難しさを感じ取ることができた。

みっくんたち一家はさっそく連絡を取り、佐村河内と会ってみることにした。

2009年の夏といえば、佐村河内は広島で、「レクイエム・ヒロシマ」と名付けた合唱曲を100名を越える児童生徒で合唱するという大イヴェントを企画していた。

実はその前年、佐村河内はこの合唱を「広島合唱連盟」に依頼していた。だが100名規模の合唱は難しいと断りの手紙がきた。その時助け船を出したのが、佐村河内の五日市南小学校時代の恩師だった。彼の働きかけで、市内の3つの児童合唱団と2つの高校合唱団が参加。約100人の合唱団の歌声により、この曲は原爆公園で披露された。

その時取材に入ったテレビ新広島のカメラの前で、佐村河内はこう語っている。

「若い世代の音楽で次の世代に、原爆の悲惨さや核兵器廃絶とかを訴えていこうという人間なので、言葉ではなく声、人の声で祈りをと思っています」

この曲は4つのパートに分けられ、母音の「ア」だけで歌うように指定されている。詩よりも100名の子どもたちの存在とコーラスにスポットライトを当てる演出だ。

さらに佐村河内は、母校の五日市南小学校を訪ね、子どもたちの前で原爆で亡くなった死者たちの写真を見せながら、こう語っている。もちろん取材するテレビカメラを意識しながら。

「この人は歯から出血しているね。怖かったら下を向いておけばいいんだからね。見なかったらいい。任せるよ。でも被爆者たちは殺されたんだよ。一発の原子爆弾で。何百何千と折り重なるように丸焦げで死んでいたということを言いたいわけよ。(中略)こんなことが許されると思う?許されんよ。恐ろしい。原爆は絶対悪です。絶対、悪なんです」

すっかり原爆の悲惨さの語り部気取りだ。前年の「交響曲第一番HIROSHIMA」の初演以降、それが佐村河内ブランド最大の「売り」になったのだ。

・障害児との関わり

片や広島でこうした活動を展開し「被爆二世の作曲家」としてのイメージを固めながら、佐村河内は約10年前から、みっくんだけでなくさまざまな障害者にその魔手を伸ばしている。ある時はボランティアとして。またある時はみっくんのように、音楽を通して。

96年に新垣に出会ったときに、佐村河内はすでに「孤児院を開きたい」と発言している。それからしばらくして、新垣とのコンビが成果を見せ始めると、孤児や障害児といった「恵まれない子どもたち」「哀れみを誘う存在」に、意図的に近づくのがその行動パターンになった。

それが始まったのは、2001年の夏だった。『鬼武者サウンドトラック、交響組曲ライジング・サン』の二枚組のCDも発売され、懐も豊かになっていた頃だ。すでに「交響曲第一番」はその冊子の中で製作が宣言され、あとは新垣の承諾を得るだけだった。

この時期佐村河内は、横浜市内にあるとある施設に頻繁に通い始めた。

この施設は単なる障害児施設ではなく、障害に加えて家庭的な虐待やDV、親の離婚といった境遇にある子どもが入所している。

佐村河内が初めてこの施設に来たときに対応した、前施設長の山村利男(仮名)はこう証言する。

「最初にやってきたときは、確か『目の見えない子どもたちと友だちになりたい』という要請だったと記憶しています。長髪にサングラス。黒い洋服を着ていました。私はその要請を受け入れて、施設に来たときは二階のフロアで遊んでくださいと伝えました。彼は不定期で突然ふらっと来るのです。来たときには、私が施設内を見回っていると、畳の部屋で子どもたちと横になったりして遊んでいました。2,3時間遊ぶと帰っていく。そういうボランティアだったと思います」

当時主任だった山形政治(仮名)の記憶はこうだ。

「最初はボランティアとして関わりたいということでした。クリスマスにプレゼントをお持ちいただいたこともあります。楽曲ではなく、CDを買う商品券だったと思います。来たときは、子どもたちと一緒にCDを聴いていたことが多かったと思います。ピアノは弾いていませんでした。盲児が多いので、みんな音楽は好きなんです。彼のことを慕っていた子どもは確かにいました」

佐村河内は、その自伝の中で、この施設で出会った子どものことを書いている。S、N、Yの3人だ(自伝の中では子どもたちは愛称で表記されている)。

その中でYは、キーボードを弾いた。障害によって膝と肘が曲がったままのびなかったが、手首を外向きに曲げることでのびない肘をカバーして弾く子だった。自伝の中ではこう表記されている。

「別のフロアに電子ピアノがあったのを思い出した私は、そちらのほうが鍵盤の重さが生のピアノに近いだろうと考え、Yを連れていきました。こうして私はYの初めてのピアノの師になったのです。(中略)レッスンはその後二年間近く続けました」

この部分に対して、山村はこう反発した。

「その子は二歳のときに家庭の事情でこの施設で養育することになりました。最初は全介助の状態で両足が曲がっていました。それが女の子と同室にしたら、女の子が触るキーボードに興味を持ちだした。やがてあぐらをかいてキーボードを正確に弾くようになって、和音をつけて弾くようになった。保母さんから『この子は才能があるようだからレッスンをつけさせたい』という要望が出て、ロータリークラブにカンパを募って現代音楽の有名な男の先生のレッスンを六年間受けたのです。いまでは時々地域の福祉関係の活動でコンサートを開いています。佐村河内さんの指導を受けたことなんて、全くありません」

むしろ佐村河内は3、4年前に山村に、唐突にこんな申し出をしたという。

―――Y君をぼくのコンサートに出してあげたいのですが。

山村は答えた。

「施設の子どもたちは家庭の事情が複雑だしプライバシーがある。私としてはOKは言えません。NOです」

ところが佐村河内は執拗に食い下がり、約1時間もねばった。山村が「児童相談所に了解をとらなければならない、NOだ」とあくまで突っぱねると、しぶしぶと引き下がったという。山村が振り返る。

「ゲストみたいに紹介しようと思っていたのでしょうか。確かにY君がピアノでも演奏すれば聴衆は感動すると思います。現にY君はその後音楽の力は急速に伸びましたから」

実はこの施設には、新垣も佐村河内に言われて足を運んだことがある。

その記憶はこうだ。

「その施設へは佐村河内さんと一緒に一度だけ訪ねたことがあります。一緒に来てほしいと誘われて、山手駅から急な坂を登っていきました。『鬼武者』が出てまもなくだったと思います。その日は子どもたちと一緒に給食を食べて、子どもたちの様子を見ていました。ピアノを弾いたり音楽の指導をしたりはしていません。その時、Sちゃんという子とは仲がいいんだと紹介されて、みんながいる部屋とは別の部屋で、私はたまたまSちゃんと二人きりになる瞬間がありました」

自伝の中で佐村河内は、Sのことをこう書いている。

「保育士さんのいうことは聞かなくても、私のいうことは素直に聞き入れてくれるため、いつの間にか私は施設で『S担当』と認識されるようになりました。(中略)学校の送り迎え、朝昼晩の食事介助、毎日の散歩、運動会、バザー、クリスマス、餅つき大会、遠足、いつも私はSと一緒でした」

この部分を確認すると、山村はひと言、こう言いきった。

「なに?朝昼晩の散歩?食事?学校の送り迎え?これは嘘ですよ。大嘘。こんなことはありえないし、佐村河内さんはそんなに頻繁に施設に来ていたわけではありませんから」

新垣にはSと佐村河内の関係に関して、こんな記憶がある。

「Sちゃんは目があまり見えなくて、コミュニケーションがとれる様子ではなかったと記憶しています。でも私が見る限り、自分からは発信できないけれどこちらが言っていることは把握できる、分かるという印象でした。そうして二人でいるところに、佐村河内さんが戻ってきました。すると特に悪気があるというふうもなく『この子は何もわからないから』と吐き捨てるように言ったのです。何を言ってもどうせわからない、無駄だよというニュアンスでした。きっとSちゃんは何を言われているかわかっているはずなのに。酷いことを言うなと憤りを感じたことを覚えています」

新垣には他にも、障害児に関しての思い出がある。

「妙蓮寺の家には障害のある子と一緒に撮った写真や、もらった手紙などを飾ってある場所がありました。障害児にプレゼントしたいといって、私は5曲から10曲は作ったと思います。通常の仕事である譜面を渡しに佐村河内さんの自宅に行ったときに、『ちょっとシンセサイザーで即興でつくって』とお願いされるのです。『こういう障害、こういう病気を持った子に曲をあげたい。こういうイメージで即興演奏してもらえないかな』と言われて、テープやMDに録音しました。佐村河内さんの要望で、即興ながらなるべく長い曲を作るように心がけました。報酬は『今日の足代に』といって1万円渡される事が多かったと記憶しています」

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