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事件の教訓を発信することの意味について

ここから何回かの連載になるかもしれないが、学校で発生した事件と、そこに関わる学校や行政の「事件の教訓」に対する姿勢などについて語っていきたい。
そのことによって、これまで、とくにいじめによる自殺の問題などに共通する「隠すこと」「黙ってしまうこと」、あるいは「責任を回避しようとすること」が、誰の利益も生んでこなかったことを明らかにするだろう。

ぼくが小学校の教員を退職し、大学の教員となったある夏の日だった。
某テレビ局の報道記者Tさんから連絡があり、久しぶりに会うことになった。
Tさんとは、大阪教育大学附属池田小学校事件のドキュメンタリー制作で多くの取材を受け、報道記者としての魂を感じたし、話していてとても勉強になり、親しくするようになっていた。

日本料理店の個室に通され、Tさんは冗談交じりに店の人に、「今から密談するから」と言って笑った。
その時点では、Tさんがぼくと会おうとした理由がまだ知らされていなかった。
ただ、旧交を温めるだけの理由ではないということはわかった。
そしてTさんは、2005年に発生した、小学校教師殺傷事件のことを話しはじめた。
話の要点は、

来年(2015年)の2月に、事件から10年を迎えるが、これまでの10年で、当該行政、あるいは小学校はどのように事件を教訓とし、何を取り組んできたのかが見えてこないので、この10年の節目に、もう一度事件を検証し、報道番組にしたい。

という話だった。
そしてTさんはこうも訴えた。
小学校や教育委員会からは、一切の取材拒否をされている。
なぜそれほどまでに拒否されるのかわからない。
そしてぼくに、一緒にやらないかというお話だった。

ぼくを上手く「使おう」という魂胆はミエミエだったが、Tさんの話の中で、ぼくの中に大きな問題意識を呼び起こした言葉があった。それは、

「とまどいながら、さすまたを振るう教師たち」
「教師はガードマンではない」


という言葉だった。

2001年の附属池田小学校事件、そして2005年の教師殺傷事件で、全国的に学校での「不審者対応訓練」が広がりを見せた。
ぼくも多くの学校で講師として関わってきたし、今現在でもそのような依頼があるが、教師は慣れないさすまたを持って、同僚同士で「闘う」。

そこにあるのは教師の「使命感」だが、同時に「違和感」がつきまとう。
ぼくは最後に必ず言う。

「でも、教師は教育者で、さすまたを持って闘うことが仕事ではありません。学校に不審者を入れない工夫を考え、実践することが大切です」

Tさんの言葉はぼくの中で、事件や災害の教訓に基づいた「本当の」学校安全への道標のひとつとなった。

事件から10年のその日、「何もなかった」

2015年2月14日。
事件からちょうど10年のその日。
ぼくはTさんとテレビ局のメンバーとともに、朝から事件のあった自治体のホール前にいた。
その日はここで、「元気、子どもフェスタ」という催しがあり、そこに参加するためだった。
事件からちょうど10年にあたるこの日の催しは、事件との関連であることは明らかに思えた。
しかし、事前に何度も取材の申し込みをしたTさんは、市に徹底して取材拒否をされていた。
この日もカメラは外で待ち、ぼくとTさんだけ、一般参加者として会場に入った。
会場内は保護者や、おそらく動員をかけられて集まった近隣の小中学校の管理職で埋め尽くされており、盛況な様子だった。
プログラムとしては、前半はホールで大学教授による講演があり、後半は場所を移していくつかのテーマ別分科会に分かれるという構成になっていた。
10年前の事件についての「何か」があるとすれば、市の役職のあいさつか講演だろうと、ぼくは強い関心を持って会場にいた。


結果から言うと、市の教育長のあいさつ、講演も含め、10年前の事件には誰ひとりとして、まったく触れることはなかった。
ぼくのそのときの印象では、あえてその話題を避けたのではないかと感じられるほどの徹底ぶりだった。


それにしても、市のために勤め続けた教師が、学校を、子どもたちのいのちを守る代償のように殉職しているのだ。
黙とうさえできないのかと、ぼくは憤りを覚えた。
(次回へと続く)


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