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息をすること、旅をすること。(行き帰り・生き返り・息還り)

帰宅することで初めて、旅が生まれるのだ。1泊2日の温泉旅行も、週末をフル活用した弾丸海外旅行も、アメリカ大陸横断旅行も、帰りのチケットを取らずに出発する気まぐれな旅も。家に帰らないうちはどれも名指せぬ移動でしかない。街中を飛び交う聞いたことのない言語や、見たことのない食べもの、想像を絶する大自然、あるいは雑誌や映像のなかで何度も見てきた観光地が旅を旅たらしめるのではない。「家に帰るまでが遠足です」と同じことだ。家に帰るまでが旅であり、家に帰るまでは旅にならない。未来が過去を規定する。
ー『WIRED VOL.38』より 帰宅論序説

僕の今までの持論は、「旅行は”行く”もの、旅は”出る”もの。旅は、家から一歩どこかへと踏み出した時点で旅として成立する」というものだった。

今でもそれには自信を持っているのだけれど、一方でこの「旅は帰ることで旅として成立する」というこの言説にも深く共感をしている。


すべての物事は表裏一体であり、巡り巡って循環している。

海の水が雲になり、雨となって地表に降り注いで、川となって流れ出し、海へと帰るように。
呼吸をして取り入れた空気が、肺から身体中の血液に酸素を送り、吐き出されるように。

水の循環。
身体の新陳代謝。
旅に出ること、帰ってくること。

旅するように暮らすというのはとても豊かで楽しい日々ではあるけれど、新しい刺激だけを取り入れてばかりだと、時に疲れてしまうこともある。

酸素だって、それだけを取りこみすぎると身体に毒になる。
空気には酸素以外の一見必要のないものが70%くらい混じっていて、それを丸ごと吸い込んで吐き出しながら、僕らは今この瞬間も生きている。

インプットが多くなればなるほど、同じだけアウトプットすることが大切なのだと思う。
今すぐ形にはできなくても、しっかりと咀嚼して、分解して、いずれ使う栄養として溜め込んでおくこと。
こうして上手くまとまらない言葉や文章に残しておくのだって、いつかどこかで(あわよくば誰かの)役に立つといいな、なんて思いながら。


旅は、心と身体の深呼吸だ。

日常の中で息苦しさや生きづらさを感じたら、深く息を吸って吐くために、非日常ー「いつもとちがう」の中に出かけていったらいいと思う。

そしてまた、日常の中へと帰り、息をし続ける。
必要なものとそうでないものを、飲み込んで吐き出して。


そうやって”人生という旅”は続いていく。

人生は「終わりなき旅」だとMr.Childrenが歌っているけれど、もし旅が帰ることで成立するというのなら、人生という旅が帰る場所は「死」ということになるのだろう。

そう考えると、「死」はあるべきもので、優しいもので、もしかしたらその先に、また新しい旅へと巡っていくのかもしれない。

そう考えた方が「死んだらそれで何もかも終わり」というよりも、理にかなったような感じがする。
仏教とか東洋思想って、実はすごく自然で合理的な考え方なんじゃないかなぁ。


特にこの文章に、オチもまとめも結論もない。

でもたまには、こうやって吸って吐くだけのように、文字を書いてみるのも悪くない。



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