文章を書くということ。noteで嫉妬する人たちの言葉。(#旅するような暮らしのラジオ #6)

いちばんはじめにnoteというものを書くときにも書いたのですが、僕は昔から文章を書くという行為が好きでした。

本もたくさん読んでいたし、作文の宿題なんかは嬉々として取り組んでいたような子供時代。小学校の卒業文集には「小説家になりたい」的なことを書いたこともあります。

ただ、その頃からすでに、自分にはセンスというものが備わっていないことも子供ながらにわかっていました。

なんでかって、その皆が書いた作品が載っている文集には、自分よりも明らかに人の心を動かす文才、着眼点を持ったクラスメートが何人もいたからです。

ああ、どうしたらこんな風に世界を切り取れるんだろう。
この文章を書けるのが、どうして自分じゃないんだろう―。

そんなことを考えて、感嘆と同時に切ない思いを抱えていたあの頃。

noteをはじめてみて色々な人たちの文章に触れてみて、そんな記憶が鮮明に蘇ってくるようになりました。
今回は僕がnoteで、特に「こんな風に書けたら……」と影響を受けている人を二人、ご紹介します。

伊佐さんの文章とは「旅」「文章」というキーワードでかなり最初の頃に出会ったのですが、このnoteは本当に衝撃でした。
僕が伝えていきたい世界観を、こんなにも軽やかに、それでいて深く広く、まさに一編のショートムービーのように表現されている人がいるなんて……。

1ミリ、2ミリ、「いつもの私」をはみ出してみる。毎日続けていたら、いつかきっと、あのまた濃いグレーのウールのコートの、後ろ姿、瀬戸内海の風、パタン、と扉が閉まる、けれど追いかけたい背中。走り出したい衝動、もう一度笑いたい、冬だって乗り切れる、楽しめる気持ちに、出会えるような。
毎日、鬱々としながら「なんか楽しいことはないかなぁ」なんて思っても、日々は変わってくれない。必要なのは、大きすぎる変化ではなくて。「ちょっとそこまで」、新しくその一歩を踏み出して行き先を変えてみる、少しだけの「覗く勇気」。

この文章に出会えたことは、僕が「旅するように"いきる"」「旅は暮らしの反対側ではなく"中”にある」というテーマで書くと決めてから、大きな指針になっています。


最所さんの文章やTwitterの発信は、個人的に心に響いたりその時タイムリーに考えていることに重なる時が多くて。

それにしたって、こんなに重なりますか?笑
日付みてもらいたいんですけど僕の投稿のわずか2日後ですよ笑

話のきっかけだけでなく、このnoteに綴られている内容はすべて、旅の仕方や時間の使い方・人生観まで本当に「そうそう、本当にそうなんだよね」ということばっかりで。

それだけに、同じ「イヤホンを忘れた」という出だしからこうも見せつけられると、悔しいやら逆に嬉しいやら、なんとも言えない気持ちになります。

ちなみに、ちょくちょく挟まれる野球ネタやヤクルトスワローズ愛も野球好きとしてはクリティカルヒットで、いつもニヤニヤしながら読んでしまいます。

このお二人、最近一緒に旅に出たり、英語を学ぶコミュニティを立ち上げたりされていて、僕が向かっていきたい方向ってこっちなのかなというのが改めて確認できた感じがして嬉しかったです。

(よく他の人から言われて自分でもそう思うのですが、僕は結構"女性脳"なところがあります。そんなことも今度掘り下げて話してもいいかも。)

小学生の頃と違うのは、たとえ小説家じゃなかったとしても、こんな風に文章を綴り、それを知らない誰かの心に届けられるチャンスが誰にでもあるということ。

そして、「どうしてこの文章を書くのが僕じゃなかったんだ……」と思わず嫉妬してしまう人たちも、はじめからセンスがあったわけでは(たぶん)なくて、毎日の積み重ねや沢山の努力の結果としてそれを手に入れているというのもわかるということです。


悔しい、という感情が湧くということは、大変おこがましくも、自分だってそうなれるというビジョンを、僕が諦めていないから。


そんな感情があるうちは、とても追いつけるとも思えないけど、ひとつひとつ言葉をカタチにするという行為を、文章を書くということを、積み重ねていきたいと思っています。


土日ということもあって、二日続けて時間オーバーしてしまいました。


今日のところはこの辺で!


それでは、また。


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