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続・座標軸 抒情歌~失われたものへの想い~(改題)

 「抒情歌」という言葉ある。私の好きなジャンルだということはわかっているが、その定義がよくわからない。そのよくわからないものを例の座標軸で表現しようという無謀な試みをしてみた。
 「抒情」と似た雰囲気を持った言葉がいくつかある。「感傷」「郷愁」「哀愁」「旅愁」・・・。それらとも比較しながら、「抒情歌」の意味を紐解いてみたいと思う。
 さだまさしや松山千春の歌をさして、「抒情派フォーク」と呼んでいた時があった。なんとなく理解できていた。それまでのメッセージ性、あるいは政治色が強くて攻撃的なフォークとは違って、優しさを表面に打ち出したフォークで、歌い手の声が高音で透明感があるという共通点があった。「優しさ」がひとつのキーワードとして挙げられそうだが、優しければすべてが「抒情派」とは言えないだろう。
 「抒情歌」として私が一番に挙げたいのは『赤とんぼ(作詞:三木露風 作曲:山田耕筰)』である。母親のいない寂しさ、母親の代わりをしてくれた姉やの結婚、それらに対する喪失感がそこに感じられる。
 さらに『浜千鳥』も好きな抒情歌である。「親をさがして鳴く鳥が 波の国から生まれ出る」。親のいない喪失感が、涙でベタベタにならない程度にサラリと歌われている。
 「抒情派フォーク」とは言えない吉田拓郎にも抒情歌と呼べる歌がある。『夏休み』という歌だ。子どもの頃を振り返って、今ではもう消えて無くなってしまったものを懐かしむ歌だ。蛙、とんぼ、せみ、ひまわり、麦わら帽子、姉さん先生、そして夏休み。大人になって自分の身の回りから消えて行ってしまったもの、それは時の流れのせいではあるが、それだけでは収まらない何かもありそうである。原爆によってすべてが奪い去られたという見方もネットでは紹介されているが、私はそこまでは考えず、子どもの純粋な心を失ったから、ということと、資本主義の発展による自然破壊を挙げておこうと思う。いずれにしても、何等かの理由によって、心の拠り所とも言うべき幼い頃の風景が今ではもう見られなくなってしまったことに対する寂しさが歌われている。私は『夏休み』は拓郎の『赤とんぼ』だと思っている。
 さて、ここで抒情歌の要素に「優しさ」の他に「喪失感」を加えてみたいと思う。失った物、失われた物、あるいは失われつつある物、失われるかもしれない物、それらに対して抱く寂しさは、それらに対する優しさを伴っているだろう。失う物は物に限らず、人間でもいいし、もっと言えば、自分自身でもいい。自分をはかなむ思いは「感傷」を伴うであろう。失われる物が故郷であれば、それは、「郷愁」となる。旅先で故郷に帰りたいと思う気持ちは「旅愁」と呼ばれる。それらを全部ひっくるめた感情を歌った歌を「抒情歌」と呼ぶというのが私の辿り着いた結論である。失われた物を愛おしく思う心を歌う歌ということになろうか。失われたことによって開いた喪失という心の穴の前にたたずんで、ただ悲しむのではなく、かといって、その穴を埋めようともせず、穴が開いた原因を考えようともしない。喪失を真正面から受け止め、それはそれでしょうがないことだと素直に受け入れる潔さのようなものを私は感じる。そんな文章をいつか書いてみたいものだと思っている。


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