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読書感想文 芥川の『蜜柑』の母性愛

 芥川の短編『蜜柑』の登場人物は2人だけである。芥川本人と思しき「私」と小娘である。「私」はもうすでに立派な大人であり、著名な小説家である。片や小娘は、名もなき貧乏人の小娘であり、口減らしのためにどこかの奉公先にひとりで汽車に乗って出かけていこうとしている。3等切符で2等車に間違えて乗ったことにも気がつかない。しかし、である。「私」が神経質に新聞の夕刊を読み、社会情勢に憂鬱そうにしているのに対して、娘は泰然自若として、回りのことなど気にもかけない。ましてや切符が2等か3等かなんてどうでもいいのである。
 2人のほかにだれも乗っていない客車。ひとつの閉塞した空間。その空間に娘は風穴をあける(窓をあける)という行動にでる。汽車の煙を恐れた「私」はそれに必死で抵抗する。あくまでも精神的抵抗にすぎないが。
 窓をこじあけた娘はさらに大胆な行動にでる。懐にもっていた蜜柑を汽車の窓から投げたのである。たぶんそれは、計画的な行動ではなく、衝動的な行動であったはずである。なぜなら、この蜜柑を娘がなぜ持っていたかを考えてみれば想像がつく。蜜柑を娘が買えるわけもなく、きっと娘の親が、奉公先へのせめてもの手土産として、家の畑でとれた蜜柑を娘に持たせたのであろう。その蜜柑を娘は弟たちに投げ与えたのである。そうせざるを得ない感情の動きが、娘の心の中に衝動的に沸き上がったのであろう。踏切まで見送りに来てくれた幼い弟たちに別れと感謝の気持ちを、なんとしてでも伝えたいという気持ちがそういう行動をとらせたのであろう。
 狭い客車の窓から、見送りに来た弟たちに蜜柑を投げ与えるというこの娘の行為に、私(筆者)は娘の母性愛にも似た愛情を感じる。娘の母性愛が汽車の小さな窓から、外界に向かって放出されたのである。一瞬の出来事ではあるが、この出来事のスケールの大きさの前には、さしもの暗い表情が売り物の小説家先生も、憂鬱が吹き飛ばされたというわけである。
 女性の母性愛の前には、男は所詮子供なのである。


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