自らモラハラする道を選んだという話

元妻から離婚を言い渡され、自身がモラハラをしていたことを自覚したという話は自己紹介でしました。

そこから毎日のようにモラハラについて調べる中で、モラハラ加害者は、その成育環境において歪んだ自己愛を獲得し、他者に加害するようになるという一説を目にした。自分はそんな成育環境とは全く無縁でいたと思っていたが、少しモヤッとする気持ちもあった事もあり、同僚にあたる臨床心理士さんにカウンセリングを依頼した。臨床心理士さんとのカウンセリングが、過去のトラウマを引き摺り出すきっかけを与えてくれた。

自分では順風満帆、何の問題もない普通の家庭と思っていた家族は、「そう思いたかった自分の理想の家族」というだけであり、自身への思い込ませによって作り上げた虚像に過ぎなかった。

先に事実を書いてしまうが、11歳から高校卒業までの7年間、大好きであった祖父に対する母からのモラハラを面前で見せられてきて、トラウマ的な経験もし、そして恐らく14歳くらいからか、今度は自分が家族に対して加害者となった。

実家は父方祖父、両親、自分、妹の5人暮らしだった。幼い頃から妹は入院がちで、年に5,6回入院するなんてことはザラにあり、その度に母は妹につきっきりになっていた。そんなとき、幼い自分の面倒を見てくれたのは祖父だった。保育園や小学校に迎えに来てくれて、そのまま祖父の運転する軽トラで田んぼへ直行、祖父は畑仕事を、自分はその辺に流れている用水路や小川で虫を捕まえたり、メダカやアメンボを観察して遊んでいた。夕方になり祖父と帰宅し、風呂も祖父と一緒に入る、そして父が帰宅し男3人で食事を取り、祖父と同じ部屋で寝る。非常に田舎の地方特有の考えで、内孫長男であることもあり、祖父も相当可愛がってくれた。小学校4年生くらいからは両親・妹と寝室を一緒にすることよりも祖父と一緒に寝ることを選択するくらい当時はおじいちゃん子であった。妹はといえば、昔から男孫であった自分とは比較、差別(お年玉など諸々)されてきたので、そもそも祖父のことは好いてない様子であった。だから後述する母から祖父へのモラハラ行為に対しても、あくまで自分の想像ではあるが、妹はさほど気にしていなかったのかもしれない。当時は、祖父と母の仲も普通(嫁舅でお互い思うところはあったとは思うが、少なくとも子どもからみて表面上は普通であった)、妹とも喧嘩はあるものの普通に遊ぶ事もあり、いわゆる上で記載した「普通の家庭」であっただろう。

しかし、小学校5年の夏から母から祖父に対するモラハラ行為が始まった。
内容としては、

  • 祖父が居間にいるだけで舌打ちをする

  • 祖父が居間にいる時に大きな音を立てて扉を閉める

  • 祖父が居間にいると「早く上(部屋)にいけよ、邪魔なんだよ、糞爺」とぶつぶつ文句を言っている

  • 祖父の食事だけすでに取り分けられている(しかも少量)。そして大皿に手をつけようとすると母が露骨に顔をしかめる。自分が斜め前に座って食べているのでその母の顔が見える。

これが、高校卒業まで毎日続いた。高校卒業までと書いたのは大学は県外で一人暮らしをするようになったからだ。恐らく、ほぼ確実に自分が一人暮らしを始めた後も実家では母から祖父へのモラハラが続いていたに違いない。なぜなら、夏休みなどで帰省したときも、上記のモラハラ行為はなくなってはいなかったからだ。
故に、県外で一人暮らしができるとなった時は、不安はほぼなかったように思い出せる。一人暮らしの不安より、母の祖父に対する行動を見なくて済むという安堵が優先したからだろう。今でこそ上3つはなくなったが、未だに食事だけは取り分けられている。

なぜ、ついこの前まで普通だった関係なのに、突然母が祖父にそのような行動を取るのか全く理解できなかったし、大好きだった祖父が母からそのような扱いを受けていているのを見て、凄く辛かった。そう、まるで自分がやられているかのように凄く辛く感じたのだった。

当時、母が癌を患っていたのだが(今でも元気で生きてます)、どうやら癌で具合が悪く寝ていた母に対して、畑仕事から帰って、昼から一杯引っ掛けた祖父が田舎の爺さん特有の股引の格好で酷い事を母に言ったことが原因のようだった(この事実を知ったのはもう少し後のことになる)。

そして、小学校6年生の冬、トラウマ的な体験をする。
自分と祖父だけがいた居間で祖父が例の股引を含む洗濯物を干していた。妹と父が何をしていたのかは覚えていないが、別室で昼寝でもしていたのだろうか?だとしたらとことん運がいい。そこに運悪く母が入って来てしまった。母の嫌な思い出を思い起こさせる「例の股引」をみて、母も自分を抑えられなくなってしまったのだろう。ものすごい剣幕で祖父に罵声を浴びせつけながら、祖父の洗濯物を土間に投げ捨て始めた。祖父も黙っていられなかったのだろう、反撃に出た。目の前で繰り広げられる罵声の応酬に、とても恐くなってしまった。でも自分が声を上げて止めたらやめてくれるのではないかという期待、そしてどうしていいかわからない混乱を抱きながらも「いい加減にしてくれ!なんで仲良くしてくれないんだ!」と叫んだ。祖父は何も言わなかった。

「うるせえ、ぼけ、お前は黙ってろ」これが瞬時に母から返ってきた言葉であった。今までに見たことのない、現時点においても今までで最も怒りと憎しみに満ちた剣幕であった。
それまで生きてきた経験の中で、これほどまでに大人から強い敵意と拒否を向けられた経験はなかった、そしてそれが今まで育ててくれた・守ってくれた母親から向けられた。30歳も過ぎた今なら、同じ経験をしたとしても「うるせえ、むしろおかんが黙っとけや」くらいの返しは出来たのだろうが。

ただ、12歳の自分の心を破壊するには充分すぎる敵意と拒否だった。

その場にいられなくなって、真冬に家を飛び出して5kmくらい離れた従兄弟(母の実家)に走って逃げ込んだ。2人は飛び出すときにもまだ言い合いをしていた。途中で家を飛び出したことを両親に気づかれないか、従兄弟の家に向かっている途中に見つかって家に連れ戻されないか?それだけが不安だった。なんとかして、従兄弟の家にたどり着いて、叔母さんに助けを求めないといけない・・・そんな気持ちだった。なんとか従兄弟の家にたどり着いた安心感、家で起きた事件、いろんな感情でたどり着いて家に入れてもらった時は既に号泣していたのではなかっただろうか。叔母さんと母方祖母は従兄弟2人を別室に行かせ、自分が何も言っていないにも関わらず「じいさんと母さんが喧嘩したか?」と聞いてきた。
なぜ?どうして叔母さんとおばあさんが知ってるの?全く理解が追いつかなかったが「うん」とだけ答えた。叔母さんとおばあさんは「子どもの前でだけは絶対やるなって言ったのに」とぼそっと言って、温かいココアを出してくれたような。1時間もしないうちに両親が迎えに来て、母は叔母さんとおばあさんに色々注意されていたが、もはや自分の耳には何も入っていない、放心状態であった。

自宅に帰ってきて、両親から謝られたが、正直許せなかった・・・
なぜなら、この出来事があっても母から祖父へのモラハラ行為は続いたからだ。この1件で祖父へのモラハラ行為がなくなったら、まだ許せたかもしれない。
結局、自分がなんとか母の機嫌を取ろうとしても何をしてもモラハラ行為は無くならなかった。

自分が何をしても変わらない=オレのせいじゃない=オレ以外の誰かのせい、という思考で自分を守る様になった。何をしても自分の家族内の問題すら改善させられない、そんな自分の存在に価値などないと目の当たりにした。そして、このあたりからだろうか、それまではモラハラ行為を目にするたびに傷を負っていたが、これ以上、傷を負うことを自分の心が許さなかった。自分の感情に反応しなければ、負う傷が最小限で済むことを徐々に学んでいった。少なくとも、逃げ場のない当時は、これが二度と精神を破壊されずに生きるための唯一の策だったようしか思えなかったのだろう。

それとともに、このような行動をする母も、知っていながら止めようとしない父も、何も感じず平然と過ごしているように見える妹も、居間にいることで自分にモラハラ加害を見せる原因となっている祖父も、全員が自分にとって加害・他責思考の対象となった。そして徐々に、家族に叱責・注意されることを契機に態度にだす、舌打ちをする、無視する、部屋にこもる、「うるせえ」と罵る、など元妻に行っていたモラハラ行為の根本のようなもの繰り返すようになった。家族全員に、である。口の立つ妹のことは突き飛ばしたり、胸ぐらを掴んだこともあった。しかし、件の罵倒事件のこともあったからだろうか、母も父も強く出ることはなかったし、自分の機嫌を取る、もしくは放置するようになった。そして、自分は上記のモラハラ行為によって他人を支配することができる、少なくとも従わされることはなくなるという経験を積んだ。自分の感情と向き合うことを放棄する事に加え、この方法で他人を支配することを覚えた自分が、他人の感情に寄り添える訳がないのだ。

同時期にバスケという唯一没頭できるものとの出会いがあった。バスケもそこそこ出来て、常に試合にも出ていたし、選抜に選ばれることもあり、誰かに負けることは絶対に認められなかった。没頭の目的は、途中から純粋に競技を楽しむ事からは遥かに遠ざかった。他者を打ち負かし、自身の立ち位置を図る目的に変わった。思い返せば、一時期は自分の人生をかけてまでその道に進もうと思った愛する競技ですら、自分の立ち位置の確認の為の道具に成り下がった。ただ、誰かの上に立つためのバスケの努力は出来たのだ。苦しんでいた時期を支えてくれた、その競技にすら歪んだ愛情で関わっていた。だから、最後の大会が終わって、ほっとしたのだ。本当の自分は知られたくないので、「やり残したことはない、やりきった」と表向きは格好がつく理由で周りの賞賛を得ようとした。本当は、これ以上歪んだ目的でバスケを続ける理由がなくなって、安心したのだ。そんな事、当時の自分が言えるわけもない。
そして成績もさして悪くなかった、ほどほどの努力で学年の上位に位置し、自身より努力しながらも成績が下の人達を内心で見下していた。
バスケで負けないこと、勉強ではコスパよくいい順位にいること。順位や勝ち負けなど他者との順位付けの中での自身の立ち位置の評価は、自分の価値を見定めるには都合が良かった。あるがままの自分に価値があるという事など、当時どころかモラハラを自覚して改善を試みようとしている今の今までこれっぽっちも考えたことがなかった。もちろん、バスケにしろ勉強にしろ、どちらも上には上がいるのだが、特に勉強では「コスパよく高順位」という点で自己正当化の余地があったし、そしてバスケについても、「チームは負けても、オレは負けていなかった」という自己正当化の余地があった。悔しい、もっとやり方があった、悲しい、一所懸命やったけどダメだった。そんな自分の辛い気持ちに向き合うことはとうに止めていたのだ。そして自己正当化し、他責的な思考をすればいくらでも自分の気持ちをより楽な方法で救うことができることを既に知っていた。

モラハラを止めたい、自分を変えたいと思っている今でも、長年慣れ親しんだ他責思考は気を緩めるとすぐに顔を出す。
他責思考は、自分の心を見つめる勇気のない者・あるがままの自分を受容する勇気のない者にとって、自分の心を守る上では非常に楽で、好都合な手段なのだ。もちろん、誰しもが他責思考をしたくなる時があるのは否定しないし、他責思考をしない完璧な人間がいるとも思ってはいない。ただ、モラハラをする自分のような人間(少なくとも自分)は、always他責思考で他者を支配しようとし、その思考に慣れすぎており、他者の感情に無頓着であるため、自分の心を守るために(それにすら気づいていない)、他者を傷つけていることにも気づかず、あるいは気づいていてもそれ以外の方法が出来ないので、殊更タチが悪いのだ。

自分の過去と向き合うことで、自分と向き合うという精神においては、自分は小中学生への移行期から全く成長していなかった事を知り、絶望した。ただ、自分と関わってきた人たち、殊更元妻が加えられてきた加害を考えると、絶望では済まされないのだ。

モラハラを見続けてきたことやトラウマ的な体験を通して、自身の感情に向き合う事を放棄し、他者の感情に寄り添う能力は身につけず、自分の心を守るのに好都合な自己正当化、他責思考、他者支配を身につけた。

ここまで記述して、よりはっきり明確に突きつけられた事実は、自分が加害的にならずに生きる道・選択肢はもちろん当然の物として自分の目の前にあったということだ。しかし、その道・選択肢を放棄して、自分は、

自らモラハラする道を選んだ


ということである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?