見出し画像

06 後南朝 二皇子の墓の謎

1、尊秀王(一ノ宮、北山宮)の首、胴体と忠義王(二ノ宮、河野宮)の墓

郷士たちは皇子の首と神璽を取り返し、首は金剛寺に手厚く葬られたと伝えられています。

一部の伝承では、弟忠義王は行き逃れて、高原で死亡したという伝承があります。

しかし1458年、赤松の残党に神璽を奪われ、これによって赤松家はお家再興の悲願を達成します。

このように後醍醐天皇から始まった南朝の血は絶え、南北朝の動乱は終焉を迎えました。

2,後村上天皇皇末孫 北山宮墓 尊秀王 宮内庁指定

宮内庁指定で尊秀王の墓であるが、胴体塚である
墓入口
墓の正面

北山宮の陵は切石積の壇上に蓮座をおき、碑石を立て、正面に唐破風の付く宝形の笠石をのせた石塔で、次の刻銘を持つ。

正面 康正三丑丁歳 南帝王一宮自天勝公正聖仏 十二月二日

面 享保八癸夘歳 当寺開基 泰岸代 (上北山村文化叢書 上北山村の歴史 付建築 美術工芸 昭和39年より)

3,後村上天皇皇末孫 河野宮墓 忠義王 宮内庁指定

宮内庁指定で忠義王の墓であるが、尊秀王の首塚でもあり、2人皇子の墓でもある。
墓の入り口
五輪塔が2つ
尊秀王の首塚と忠義王の墓

4,高原で死亡したという伝承地・・川上陵墓参考地 宮内庁指定

弟忠義王は行き逃れて、高原で死亡したという伝承があります。

その場所にお墓がありました。

昔から「南帝王さんの森」と呼ばれていました。

宮内庁指定 川上陵墓参考地、河野宮こと忠義王の墓かもしれないと指定されています。

ただし後醍醐天皇女御尊称皇太后藤原廉子の墓との説もあり。

墓全体は、こんもりとした森になっています。

忠義王の墓全景
隅に五輪塔と石垣が見える。

5,二皇子の墓・・・謎のまとめ

兄、尊秀王(自天王)自天王の墓は、上北山村の瀧川寺に胴体、川上村の金剛寺に首塚。

弟 忠義王の墓は、川上村の金剛寺に埋葬。ただし一部の伝承によると逃げ延びて、川上村高原で亡くなった。

さらに・・謎が深まります。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?