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09 もう一人の後亀山天皇の皇孫


1、車僧禅師=尊慶王(後亀山天皇の皇孫)で興泉寺を創立

興泉寺跡・・白龍山寳泉寺から、1キロ離れたところにある。

車僧禅師、尊慶王(後亀山天皇の皇孫)とも知られる、は興泉寺を創立したことで知られています。

彼は『大和誌』や上北山村史に見られます。

尊慶王は臨車僧禅師は尊慶王済宗の僧で寺塔頭盛光院開山直翁や智侃禅師に師事しました。

また、観世流の「車僧」という謡曲も彼に関連しています。

車僧禅師の没年には複数の説があり、はっきりとは分かっていません。

景色の眺めの良い所に墓がある。

寳泉寺の位牌によれば、享徳三年甲戌十二月寂(1454)とされています。

切腹説では、南朝の皇子である自天王さんが長禄元年に亡くなった時に車僧禅師も命を絶ったとされています。

一方、隠棲説では、危険を避けるために地を離れ、身を隠したとされています。

2、岸田日出男氏・・・車僧禅師=深山正虎である。

尊慶王と車僧禅師は、自天王さんの御製をはじめ、和歌を詠んでおり、資料によって歌の内容が異なることがあると言われています。

岸田日出男氏は昭和24年に車僧禅師に関する文書を整理し、彼の名前が正虎、深山と号することを明らかにしました。

車僧禅師は、車に乗って四街道を遊び歩き、子供たちがついてくる姿が見られました。

彼は700歳とも言われており、築前の国筥崎では松樹の上で座禅を組んでいました。

直翁和尚に弟子入りし、僧になった後、海生寺に居住し、山科で庵を結びました。


福岡県筥崎村の車僧観音堂は、海生寺の跡地とされていますが、古松は明治の置県の時に伐採されてしまいました。

林水月師は、海生寺が山城へ移されたと言い伝えています。

また、林師は、山城邑野郡太秦の市川に小堂があるとも伝えています。

和漢三歳図会によれば、禅師はその地で亡くなったとされています。

南山義烈史によると、車僧禅師は萬寿寺の孤海和尚の徒弟であったことがわかります。

3、林水月氏・・・深山正虎が白龍山寳泉寺を創建した

白龍山寳泉寺は、深山正虎が創建した寺であり、霊牌には「車僧七百歳深山禅師」と記されています。桂氏北山荘由来記によれば、白龍山寳泉寺の開基は車僧禅師です。

林水月和尚は、車僧大和尚を重要人物として位置付けています。

吉野名勝誌によれば、海生寺は廃寺となり、その肖像と位牌は無量寺に預けられていました。

しかし、明治25年に石田喜兵衛の資金援助によって小堂が建立され、肖像と霊牌が迎えられました。

肖像は木製で、約3尺の大きさがあり、彩色された法帽をかぶり、梯子を持った禅家の姿で描かれています。

寳泉寺は開山から560年余り経ち、法灯を守り続けています。

7月7日には、虫送り行事や車僧墓参り、火祭りといった恒例行事が行われています。

行列では鉦鼓、幟、法螺貝を持ち、子供たちや大人、学生たちが参加して、松明を持って泉から下田へと2キロメートルの道のりを進みます。

虫送り行事は、車僧禅師が教えたもので、住職の供養を行い、疫病から身を守る意味も込められています。

4、中岡孝之氏・・・大日本史説 車僧禅師は尊慶王、大空上人である

中岡孝之氏は、大日本史調査の中で、車僧禅師は尊慶王(後亀山天皇の御孫)であると述べています。

尊慶王は南朝直系の皇子であり、身元を隠して興泉寺を創建しました。

彼は南朝再興を願い、活動していたことが伝えられており、大空と号し、大空上人とも呼ばれていました。

このように、車僧禅師は歴史の中で様々な伝承や逸話が語り継がれている重要な人物であると言えます。


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