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天台のメンタリティ

ずいぶん長い間、天台宗がぼんやりとしていた。
自分なりにたくさんの本を読んで、さまざまな仏教に関して、知識に色がつき、周辺にある宗派や思想の順序立ち位置を把握しても、天台宗だけは輪郭を持たずぽっかりと空いていた。

それは私の歩いてきた書籍の道のりによるのでなく、おそらく天台宗側に理由がありそうである。今思い返してみても、天台だけは何故か、真言密教や浄土真宗が西洋哲学の言葉で説明されなおしていたり、近代以後思想の解釈をしなおしたりして、それを積極的に押し出し書籍化しているのに反して、古色たる教義を伝統的な解釈そのまま伝える。わたしと相通ずる現代的な顔がない。天台宗のその類の本には出会ったことがないし、見かけたこともない。

天台宗はどういう説明のされ方をしているかというと、もっぱら用語の説明に尽きている印象だ。
やれ「円融法界」「法界具足」あるいは「十法界」とか「十如是」とか。

大量に流れてくる言葉の洪水は素人の私にはあまりに大変だった。
汗をかきかきせっせこせっせこノートに写してみたが、当然全て洗ったように頭から流れ落ちている。

そんな経験をずいぶん繰り返したから長い間天台とは離れてしまっていた。

が、宗教系の王道「〇〇とキリスト教」というテーマ。
サイードに睨まれそうだが、結局西洋は便利だ。学問は西洋中心で進んできたから、西洋の物差しは誰にでも使える便利な共通語のようになっている。
何かしらとキリスト教を比べる。何かしらと聖書を比べる。英語と比べる。
例に漏れず『天台仏教とキリスト教』という本があった。
「宗教における理と行」という副題がついており、南山宗教文化研究所がだしている。1988年出版。内容はシンポジウムをまとめたものであるようだ。


まだ読んでない。
少しだけつまみ食いをするみたいに、覗いてみただけだ。
けれどそれで私に、ひらめくものがあった。

今回はそのひらめきを書いていきたい。
「つれづれ書き」であるし「よみかけ」を続けているからこそ、今ここで書いておきたい。

「オリエンテーション」と題された章の最後の方。
私にひらめきを与えたのは、このような部分である。

比叡山で行われる「回峰行」という修行について「行者は峰々の一木一草一石一水にいたるまで礼拝して行く」と書いてありますけれども、Petzolt氏はそれをもう少し広く次の通りに言い表しています。「天台の方々にとっては、万物は〈妙〉である。それは、彼らにとってすべてのものは絶対的実在であるから、当然のことである」と。

万物が〈妙〉

わたしの中の一つの定理であるが、
物事は自分と触れ合ったときに初めて理解した気になれる、というのがある。

自分の内側に、経験に、完成にないものは理解できないが、何か自分の持っているものと対象が、同じ要素を有していると感じたとき、人は自分の中にある物でもってその対象を理解する。
ここにおいて、そんな風な出来事が起こった。

万物が〈妙〉
私は、世界のすべてがオモロいものだと思っている。
映画や音楽はもちろん、砂粒や水道水やネズミの吐息まで。

世の中には鉄道が好きな人がいて、石ころが好きな人がいて、道路標識が好きな人がいる。
興味に線引きはない。持てば全てが趣味である。
これを大局的に見ると、万物すべてがオモロい、になるのである。

そうして何が得られるかというと、この宇宙の砂粒からネズミの吐息まで、あらゆるものの存在を肯定できるのでる。

だから私は今まで、道に空き缶が転がっているとつぶさにそれを観察する生活をしたり、飛び出しくんのファッションチェックをしてまわったりしていたのである。

一緒にして怒られるかもしれないが、私が無駄を愛しながらこんなことをしていた二十歳そこらのときの感覚は実に「一木一草一石一水にいたるまで礼拝して行く」というものに近いように感じた。

ではでは、この万物がオモロい精神を紐解くと、これらは小宇宙〈ミクロコスモス〉の観念に頼っている。

始まりは趣味であった。
鉱物をあつめてみること。
空き缶を写真にコレクションすること。
そして古本収集。

このような特定の物に対する興味関心は小宇宙への憧憬に始まる。
鉱物なら鉱物、空き缶なら空き缶の中に、それを集めて初めて見えてくる秩序や法則のようなものが仄見えてくる喜び。あるテーマを決め収集し始め、しだいにその世界が完成に近づいてくる満足。

宇宙というドデカい世界の内側で、こっち基準である範囲を切り取ってみる。
その切り取った範囲のなかに一つの宇宙があるが如く、法則や価値の順序や関係性を見つけることに興奮する。
これがコレクターであり、趣味人、小宇宙を憧憬するものの姿である。

鉱物世界、空き缶世界に住み始めたとき、人は趣味人となるのである。
(これらを曼荼羅と結びつけることは今はしないが、個人的に興味はある)

ともかく、小宇宙である。

世間的に見ると無意味で、非効率的なこれらの〈趣味〉であるが、これを学問として突き詰めたものがあり、それが盛んであった時代があった。

時代は18、19世紀。
その学問とは博物学である。

博物学もまた小宇宙を憧憬するものの営みである。
植物なら植物、鳥なら鳥、カマキリならカマキリと範囲を定め、収集する。
そしてその内側に法則や関係性を見出してゆく。


わたしは天台—小宇宙—博物学へと発想を展開していったとき、この蛇の道の最初と最後にある共通点を見つけた。

図である。

博物学が現在の化学に残した一番の仕事といえば樹形図である。
動物の分類を樹形図にするという発想。界から門、網、目、科、属、種へとだんだんに細かく別れてゆく図。

ここには小宇宙好みの、ある範囲の中に少しでも差異が見つかれば仕分けて関係性をつけるという癖があらわれている。

そして天台宗の本にもよく出てくるのがこの樹形図なのである。

「五時八教」とか「化儀の四教」で検索して出てくるのがまさにわたしの天台のイメージである。

中国は元来、何においても小宇宙を愛する国民である。

中国人にとって宇宙は、外在する際限なき時空としてのみあったのではない。彼らは宇宙を自在に伸縮し、いたるところに別乾坤を見出した。

三浦國雄『風水|中国人のトポス』

ここで挙げられる「壺中天」「盆栽」はその最たるもの。

『聊斎志異』の中にも、「絵の中に入る話」「耳の中に小さな人がいる話」など、世界内世界の例は事欠かない。

こんな中国から生まれたところにもまた、天台宗が小宇宙を憧憬する収集癖的な観念を根底に持っていることが想像できる。

根底に小宇宙への憧憬を持つ収集癖者は、少しでも差異があればそれを分け分類せずにはいられない。

それが西洋では博物学を発展させ、中国では天台思想を生み出したのである。


『天台仏教とキリスト教』は図書室への返却期限が来たのでもう手元にはない。

途中パラパラ見たが序文の内容以上に気を引く箇所は、とりあえずはなかった。

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