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『ドライブ・マイ・カー』における「音」の支配(決定稿)

*本稿はfilmarksに投稿したレビューを大幅に加筆・修正したものです。

人間は自分の視界は瞼をつむることである程度コントロールできるが、聴覚はそうではない。私たちはそのような不随意な感覚に親密なコミュニケーションの相当部分を依存する。

『ドライブ・マイ・カー』の最初30分間は苦手だった。村上春樹的な日常会話離れした台詞回し、遠景を思い切りぼかす画面の作り方も好きじゃなく、そして何より「音声がなくても伝わるように」と言わんばかりに明晰な発声が神経に障った(なにしろエンジンがかかっている自動車のフロントガラスごしでさえ、一音一音はっきりと聞き取れてしまうのだから、相当違和感があった)。ダメな邦画の特徴を凝縮しているように思えてイライラし始めた頃にオープニング・クレジットが流れ、舞台は広島に移る。

そこからはそれまでの納得のいかなさを解きほぐすように物語が展開していった。

まずオーディションの場面で、稽古場や外部から仕切る分厚い防音の扉が、オーディション受験者が退場する度にその重さを印象付けるかのように画面に収められ、現代の演劇が音声をコントロールできる環境を前提としていることが強調される。いっぽう、稽古外の場面では突然に画面外から音声が聞こえて後からその音源がわかるという流れがスマホのシャッター音やフリスビーの落下音によって繰り返され、音声が本来的に人間には制御しきれないものであることが明らかになる。(あとたぶん気のせいではないと思うのだが、劇中で上演される舞台の最中に怪獣の足音か砲声を思わせるような重低音が響くことが何度かあったと思う。家福の潜在的な不安感を代弁しているようだった。)

また、家福の演出法が、他言語を組み合わせるという当初の発想に反して、いつしか俳優にテクストの言葉を機械的に語らせ、いわば俳優たちの喉から発せられる音声を支配しようとするかのようなものへと変質していることも指摘される。芝居の稽古はいくつかの段階を経て、雑音に満ちた屋外で稽古を行っている際(環境の音を完璧にコントロールしようとするのを止めた時)にひとつのブレークスルーに達する。この過程では「音声なき言語」を用いるひとりの俳優の存在も重要な役割を果たす。音声に依存しない彼女は、音声のコントロールをしなければならないという家福のオブセッションの死角から、直接彼に語りかけることができる。

冒頭からずっと違和感を覚えていた明瞭な発声が企まれたものであると確信したのは北海道に向かう車中での「君のせいじゃない」という台詞のぼそぼそ具合を聞いた時。日常を演技としてやり過ごすようになっていた家福はこの時、逆説的にも「もし自分が君の父親だったら」という役割演技を通じて「自然」な声を取り戻す。

車が雪に閉ざされた北海道の村に乗り入れた時、10秒くらいだろうか、映画は完全な無音になる。この箇所の意義については性急な言語化を避けたいが、本作の重要登場人物の1人の名前がまさしく「おと」であり、劇中の会話においてそれが「sound」の「音」であることが明言されていたことは指摘しておいてもよいだろう。

すでに明らかだろうが、『ドライブ・マイ・カー』は家福が「音」をコントロールしなければならないというオブセッションに囚われ、そこから回復していく物語だと説明することができる。家福のオブセッションの原因はもちろん、映画の序盤で描かれる音の急死である。死の直前に彼女が語る夢語りは家福バージョンでは、クラスメートの家に忍び込んだ主人公の少女が、その家に誰かに帰って来たことに気づくというところで終わっており、その夢を音の無意識的な願望充足として受け取った家福は、音は夫である自分が不倫行為を指摘し罰することを望んでいるのだと解釈する。しかし、家福が音の不倫について指摘することを躊躇ううちに、彼女は急死してしまい、そのことで家福は自分を責め続けることになる。自分はもっとしっかり「音」をコントロールするべきだった、彼女自身がそれを望んでいたのに、と。

私は本稿に「『ドライブ・マイ・カー』における「音」の支配」という「音」が主語であるのか目的語であるのか曖昧なタイトルを付けたが、これは半ば意図的でもある。もっと強く「音」を支配すべきだったと悔いる家福はそう思うことによって、もはやこの世にはいない「音」の思い出に支配されることになるのだから。

しかし、映画がかなり進んでから高槻は音の夢語りには続きがあったと打ち明ける。この高槻バージョンでは、主人公が空き巣行為をしている最中にそこに現れたのは、彼女を非難する資格のある家の住人ではなく、別の空き巣犯あり、結果的に主人公はその新しく登場した空き巣を返り打ちにする。この高槻バージョンのエンディングは謎めいており、その意味を見通すことは難しい(そのような試みが推奨されているとも思えない)のだが、ひとつ確かなことは、音は、家福を含めた誰かによって罰せられること、きちんと支配されることなど望んでいなかったということだろう。

音を支配しようとすることを諦めた時、家福は音の呪縛から解放されるのだ。

ただ、音が彼女の死後も『ワーニャ伯父さん』を吹き込んだテープの「言葉」として繰り返し登場することを考えれば、本作における言葉の問題は音声一般とは別に考察する価値がある。(とはいえ、俳優たちがお互いの理解しない言葉を交わす家福の演出は、言葉がただの音声と区別できなくなってしまうような瞬間を意図的に作り出すことを企図しているように思える。本作における言葉の問題はあくまでも音声一般の問題と連続するものとして理解されるべきだろう。)

言葉の不足または過剰を性と暴力で補おうとする人物として高槻と数年前に災害に巻き込まれて亡くなった(劇中には直接登場しない)渡利の母がいる。高槻は日本語の通じない共演者の「相談にのろう」として性的関係を結び、プライベートで自分を盗撮した相手には容赦なく暴力を振るう。生前、娘にしばしば暴力を振るった渡利の母は風俗産業で働いていた。直接的な暴力こそ伴わないが、脚本家としてのピンチをセックスの後に時折訪れる夢語りで乗り越えていたという音にもその傾向はあるし、パートナーを傷つけるという点で彼女の不倫は暴力に似ている。娘の死後、家福夫妻の関係が肉体関係と渾然一体となった語りによって辛うじてつながるようなどこか危ういものとなっていたのは確かで、音と暮らした家福は「幸せだった」と高槻が断言できるのは、彼自身に性や暴力といった手段で言葉を代替してしまうのが危険なことだという意識が希薄だからだ。家福の理解者となることができるのは高槻ではなく、母親との経験からそうした危うさを身をもって理解している渡利のほうである。

本作においては、性や暴力によって言葉によるコミュニケーションを置き換えてしまうことの危うさが複数の登場人物を通して示されているのだが、それはその逆に言葉を交わすことで性や暴力といった肉体的な接触にも匹敵するような親密な関係が生まれる得るということも示唆している。家福のサーブを運転する度に音が吹き込んだ『ワーニャ伯父さん』のテープを聞き、運転席から高槻バージョンの結末を聴いた渡利は家福の囚われを本人よりも先に理解し、音を「そのような人」として受け入れることはできないかと提案する。そして渡利が自分が過去に犯した「殺人」について打ち明ける時(先述の「君のせいじゃない」につながる場面である)、渡利と家福のあいだに言葉の交換にもとづく特別な関係が成立する。2人がサンルーフに掲げるシガレットはそのことの証である。

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