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絶望を飼い馴らす――『ちいかわ』スタディーズ序論

 ジクムント・フロイトの精神分析理論はその男性中心主義や異性愛中心主義、あるいはその実証性の欠如といった観点から批判されて久しいが、そのなかでも現代の文化について欠かせない観点を提供している論考として「快楽原則の彼岸」と「喪とメランコリー」が挙げられる。  このうち、トラウマに関する先駆的考察ともいえる「快楽原則の彼岸」において、孫が糸車をおもちゃにして「オオー(fort)」の掛け声とともに遠くへ投げては「アー(da)」と言いながら引っ張り戻して遊ぶ様子をみたフロイトは、それ

    • no title

      It is such a pleasure to say at the end of the long tiresome day sinking in a sofa swiping the screen they are so different from us barely human more like animals or machines. To say that aloud is like a moving an archeological musle long

      • アメリカ民謡研究会、あるいは未来へのノスタルジー

         YoutubeはAIを使った面白い動画がスパム的に増殖して面白い動画を見つける難易度が高くなった気がする。これはつまり、面白いコンテンツがもたらす「効果」を求めていたのではなくて、「面白いものを作ってる人がいる」という興奮を味わいたかったということかもしれない、などとぼやいていたら面白いものを作っている人を見つけてしまった。アメリカ民謡研究会と名乗っている。すでに6年程まえから同名義で活動していたようで、知っている人には今更の存在だろう。  「アメリカ民謡研究会」なる名称の

        • 『君たちはどう生きるか』(2023)における男性性批判と継承の問題、そしてモダニティ

          宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』(2023)を観た。頭の体操になるという点では非常によい作品だったと思う。以下、ネタバレ的な情報を含みます。未鑑賞の方は作品を観てからお読みいただければ、とお願いする次第です。  「男性」とは何かと問うことは、継承の問題と密接な関係がある。生物学的な仕方で自らの似姿を生み出すことができないというのは、生物学的男性を定義する上での必要条件だからだ。つい最近まで、歴史に名を残す人物の大半が男性だったという事実が、自ら子を産むことのできない男

        絶望を飼い馴らす――『ちいかわ』スタディーズ序論

          The Crisis of Democratic Capitalism by Martin Wolf (1)

           『民主的資本主義の危機(The Crisis of Democratic Capitalism)』(2023年)という本を読み始め(実際はAudibleなので、聴き始め)たところなのだが、とりあえずの感想をノートしておく。  著者のマーティン・ウルフ(Marting Wolf)はフィナンシャル・タイムズ(FT)紙の主任経済論説委員、つまり資本主義のイデオロギーの擁護者である。マーティン・ウルフはその中でもドン的な扱いを受けている人だ。本稿の執筆者がこの人物の存在を意識し、

          The Crisis of Democratic Capitalism by Martin Wolf (1)

          アイデンティティ装置についての覚え書き

          たぶんハーバーマスやバウマンあたりが似たような議論をしていたと思うのだが、ちょっと身近なレベルで議論する機会があったのでメモ書きしておく。 客観的な評価と主観的な思い入れが区別できなくなるようなトピック(磁場)というのがあって、区別できなくなることを能力的な問題として捉えて客観的な評価を目指すのとは別方向で、区別できなくなるという現象そのものを解明することが求められているのかもしれない。 少し前にエズラ・クライン・ショーに出演していたピッパ・ノリス(Pippa Norri

          アイデンティティ装置についての覚え書き

          Youtubeで視聴できるカナダ発アニメーション Interface がすごい

          Youtube上ですごいの見つけた。今のところインターネットに日本語で読める情報はほとんど無いようだったので、私なりにまとめてみることにした。 Interface(2017-2021)カナダ、モントリオールの Justin Tomchuk が u m a m i (日本語のウマミに由来?)名義で作成しYoutube上で公開している連作アニメーション(全24話。前後半に分かれた長いバージョンも公開されており、ここには長いバージョンへのリンクを貼っておく)。 前半: https

          Youtubeで視聴できるカナダ発アニメーション Interface がすごい

          クソメガネ的芥川賞レビュー『おいしいごはんが食べられますように』

          はい。シーズンになりましたので、クソメガネ的芥川賞レビュー~(可能な限り低いテンションで)をします。 2022年上半期の受賞は高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』だったそうです。素直に読んで面白い作品でした。ありがとうございます。 文芸誌の批評などはチェックしていないのですが、ちらちらと目に入ってくるネット上の感想を読むと、ちょっと惜しいな~(偉そう)という感じのコメントが多い気がしたので、以下、私個人の感想を書いときます。 これ、フェミニズムがないとど

          クソメガネ的芥川賞レビュー『おいしいごはんが食べられますように』

          『ドライブ・マイ・カー』における「音」の支配(決定稿)

          *本稿はfilmarksに投稿したレビューを大幅に加筆・修正したものです。 人間は自分の視界は瞼をつむることである程度コントロールできるが、聴覚はそうではない。私たちはそのような不随意な感覚に親密なコミュニケーションの相当部分を依存する。 『ドライブ・マイ・カー』の最初30分間は苦手だった。村上春樹的な日常会話離れした台詞回し、遠景を思い切りぼかす画面の作り方も好きじゃなく、そして何より「音声がなくても伝わるように」と言わんばかりに明晰な発声が神経に障った(なにしろエンジ

          『ドライブ・マイ・カー』における「音」の支配(決定稿)

          『ドライブ・マイ・カー』、運転、家父長制

          やっと『ドライブ・マイ・カー』を観てきた。運転が問題ある家庭から娘が解放されるための手段(象徴ではなく)になるという設定が、ゆざきさかおみ作のマンガ『作りたい女とたべたい女』に共通しているなと思った。 『トウキョウ・ソナタ』にも中産家庭のお母さんが車を運転するのに合わせて音楽が流れ出すという箇所があったのが記憶に残っているんだけどあれはたぶん家庭からの解放の象徴であって手段ではなかった。 タイザン5作の『タコピーの原罪』含め最近の作品が問題にしているのは『トウキョウ・ソナ

          『ドライブ・マイ・カー』、運転、家父長制

          Outdated Masculinity

           いまAmy C. Edmondson著のThe Fearless Organization(心理的安全性の元ネタ本)を読んでいる。メンバー間で不安や疑問を共有できない体質の組織は脆弱であるという内容で、マッチョなイケイケ志向だけでは駄目だという点では、この前読んだGrayson Perry著のThe Descent of Manにも共通するところがある。  素人考えだが、男らしさの問題ってフェミニズムとは切り離して論じた方がいいんじゃないかなという印象が強くなっている。ポス

          Outdated Masculinity

          父は帰らず母太る(現代マンガにおける家族像について)

          『オレが私になるまで』は父親が実質的にいない家庭で、父性と母性(この言い方じたい河合隼雄かよとツッコミ受けそうだが)の両方を担わなくてはいけなくなったストレスのために母親が太ってしまうという展開だったけど、おなじような設定は『僕のヒーロー・アカデミア』にもあった。直接の影響関係があるのかはわからないけど、現代日本ではそのような母子像が一定以上の説得力を持ってしまうということなのかな。 フェリーニとか宮崎駿(時期を限定する必要ある?)だとふくよかな女性身体を母の逞しさに結び付

          父は帰らず母太る(現代マンガにおける家族像について)

          『オレが私になるまで』における父

          ≫まず、日本のイギリス研究者――2つの「帝国」としての過去をもつ国に関係をもつ者――のはしくれとして、ロシア軍のウクライナにおける軍事行動の即時停止とウクライナ領からの撤退を望みます。また、日本に住むウクライナおよびロシアにゆかりのある人々の一個人としての安全と尊厳が何者によっても脅かされないことを望みます。≪  さて、いまこんなことを書いていていいのかという気持ちもないといえば噓になりますが本題に入ります。佐藤はつき『オレが私になるまで』(1~4巻、株式会社KADOKAW

          『オレが私になるまで』における父

          英語リベラルと純ジャパオタクは何故いがみ合うのか?

           日本は日常レベルで政治的事柄を語る語彙が未発達で、政治と分離したところで独自に美学が発達してる感があるが、英語圏では日常会話レベルで政治的な問題をかたる習慣が根付いているがゆえに美学について語る言語もその重力に引っ張られる。乱暴な一般化だと批判されるだろうし、もちろんその通りなのだが、これは口に出して言っていいのではないかと思う。  英語圏バックボーンの批評と「純ジャパ」* 的なオタクは基本的に水と油の関係にあるが、これおそらく上述のような事情により、文化に関する言語ゲー

          英語リベラルと純ジャパオタクは何故いがみ合うのか?

          『持続可能な魂の利用』2

           『持続可能な魂の利用』について、論旨は先日投稿した記事とかなり重複してしまうかもしれないが、もう一度整理したくなったので書きます。  この作品が「小説ではない」という批判は調べるまでもなく予想されるし、確かに「小説」というよりは「マニフェスト」(いうまでもないが「選挙公約」をカタカナにしたものという文脈ではなく『共産党マニフェスト』みたいな文脈のそれ)といった方が適切なのではないかという気もする。  しかし、にもかかわらずなぜこれが小説という形式で書かれたのか、もう一歩

          『持続可能な魂の利用』2

          『持続可能な魂の利用』

           笙野頼子の『水晶内制度』を連想させる設定だが、切り口はもっと時事的でむしろ『キム・ジヨン』に近い。基本的なスタンスとしては日本と英語圏とふたつの世界を往還することで得られた(特にジェンダーに関する)日本社会のおかしさを言語化していくという感じか。  この二文化間の往還というモチーフは現代とSF的な未来の往還というギミックを加えることによって増幅されるが、これによって米英が進んでおり、日本が遅れているというようなコロニアリズムがあるていど回避され(または薄められ)ているという

          『持続可能な魂の利用』