アイデンティティ装置についての覚え書き

たぶんハーバーマスやバウマンあたりが似たような議論をしていたと思うのだが、ちょっと身近なレベルで議論する機会があったのでメモ書きしておく。

客観的な評価と主観的な思い入れが区別できなくなるようなトピック(磁場)というのがあって、区別できなくなることを能力的な問題として捉えて客観的な評価を目指すのとは別方向で、区別できなくなるという現象そのものを解明することが求められているのかもしれない。

少し前にエズラ・クライン・ショーに出演していたピッパ・ノリス(Pippa Norris)が西側諸国では20世紀後半に一定程度の経済発展が達成され、その後は政治の争点が経済から文化に移っていった、その現在形がカルチャー・ウォーなのだという説明をしていた。

政治が文化になっていく一方で文化が政治になっていくような動き、もう少し厳密に言うと、伝統的な政治がアイデンティティの受け皿足り得なくなっていったその空白を文化産業が埋めていくような動きがあって、いわゆる<推し>というのは政治的アイデンティティを擬似的(むしろポストモダン的に「代替的」と呼んだ方が適切かもしれないが)に備給する装置なのだという議論はある程度は成り立つと思う。現代文化に関するSNS上での議論が、しばしばその内容とかけ離れた熱量を帯びるのも、それが政治的活動の代替物だからだと考えれば納得ではないか。

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