Hyper-Popを勝手に定義する

Hyper-Popを楽曲の特性(PCを利用した肉声の大幅な加工とか?)から定義するなら100gecsやCharli xcx、glaiveといった名前が挙がるのだろうけど、それはここでは問題にしない。

わたしが取り上げたいのはSophieやRina Sawayama、Yeuleといったアーティストのことだ(非常に近い所にArcaがいるけど、ArcaはHyper-Popというよりはもっと伝統的なアートスクール的路線の上で仕事しているという感じがする)。

いま挙げた3人に程度の差はあれ共通するのは、Hyper-というギリシア語の接頭辞の「過剰な」という原義にふさわしく、ポップのポップ性を追求することで、一種の自己参照性を獲得するというアプローチをとっているところだろう。

特にSophieに関しては、自己参照性・批評性といった言葉ですら生ぬるく、ポップのポップ性を加速主義的に突き詰めることでポップ・カルチャーを内側から破壊しようとする衝動が感じられる。ネジくぎを限界を超えて押し込んで、機械の部品そのものに大きなヒビを入れてしまうような、そういう状況を狙っている。

あえて断言しておきたいのは、PCを用いた機械的複製・加工とかポップ特有のキッチュさといった様式がHyper-Popの構成しているのではないということだ。Hyper-Pop的な衝動があってそれが上述したような要素を利用することもある、というだけである。

Hyper-Pop的な戦略のもっとも分かりやすい表現として紹介しておきたいのはSophieの"Just Like We Never Said Goodbye" だ。

We were young and outta control
I haven't seen you since I was about, mm, sixteen years old
. . . . . . . . .  . . . . . . . . .  . . . . . . . . .  . 
And your voice exactly the same
And it makes me feel, makes
me
feel
Oh, just like we never said goodbye

中学の頃の元カレと再会してデートっぽいことしたらちょっといい感じになった、的なこれ以上は陳腐になりようがないだろうという感じの内容で、これをいかにも機械的な女性ボーカルが歌う。SophieのHyper-Popは多くの場合2段構えになっていて、ここまでが第1段階だ。それはわたしたちがわたしたち自身の欲望だと思っているものが、おそらくは文化的・社会的に構成されたものーーというかポップカルチャーに媒介された資本主義の産物であるということを明らかにする。

この第1段階の批判そのものはもちろん真新しいものではない。本領は第2段階にある。"Just Like We Never Said Goodbye"の場合、途中まではボーカルの声の人工性がしつこいまでに強調されているのだが、曲の3分の2くらいを過ぎた1:45-2:05あたりにかけて、ボーカルの声がかなり人間的にきこえる部分がある。

We were young
We had everything we wanted
Running wild through the night
We were young 
We had everything we needed

楽曲的にもこの部分だけは音のレイヤーが増されており、かなり「エモく」聞こえるようになっている。欲望が人工的に構成されたものであるということは、その欲望がリアルなものではないということを意味するのでは全くない。これがSophieの第2段階である。ポップカルチャーを体現しながらポップカルチャーの病を告発する、そういう二重性がHyper-Popの魅力だ。

ジラールやラカンを引用するまでもなくあらゆる欲望は社会的なものであり、単なる大量消費社会の病理として片づけられるものではないのだが、こうした状況がポップカルチャーと資本主義という文脈において、前景化してくることは確かだろう。"Hey QT" もこのような状況に対するコメンタリーとして理解することができる。

こうした問題の「病理性」をさらに突き詰めた作品としてはSophieの"Faceshopping", やYeuleの"Pexel Affection"、"Pritty Bones" がある。

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