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アメリカ民謡研究会、あるいは未来へのノスタルジー

 YoutubeはAIを使った面白い動画がスパム的に増殖して面白い動画を見つける難易度が高くなった気がする。これはつまり、面白いコンテンツがもたらす「効果」を求めていたのではなくて、「面白いものを作ってる人がいる」という興奮を味わいたかったということかもしれない、などとぼやいていたら面白いものを作っている人を見つけてしまった。アメリカ民謡研究会と名乗っている。すでに6年程まえから同名義で活動していたようで、知っている人には今更の存在だろう。
 「アメリカ民謡研究会」なる名称の団体は日本各地の大学に存在しており、その多くは(民謡研究というよりは)軽音楽部的な活動をしているらしい。今回取り上げるアメリカ民謡研究会は、南山大学(愛知県)の「アメリカ民謡研究会」出身のHaniwa氏の活動名義とのこと。自作の曲にVocaloidとかVoiceroidとか呼ばれる音声読み上げソフトを使用した音声を乗せるというスタイルを基本としている。「アメリカ民謡」ではないが、各所に洋楽ポストロックっぽいセンスが散りばめられていて琴線をくすぐる。
 初期の楽曲は曲調といい曲のタイトルといい日本のポストロックバンドtéを想起させるが、中期以降はローファイHIPHOPなどの要素を取り入れ、近年の楽曲では往年のディズニーアニメ『ファイアーボール』(第1期2008年、第2期2011年)シリーズや最果タヒの詩を連想させるようなエッジの効いた世界観を展開している(Web上のインタビューによれば本人は西尾維新が好きらしい)。アメリカ民謡研究会の楽曲には、人間がソフトウェアに歌を歌わせるという現象そのものを主題化するものが多いが、ポストロックのような表現媒体にきわめて意識的なジャンルで音楽的素養を培った人が、Vocaloid/Voiceroidのような手法に出会えば、必然的にこうなるだろうという 感じもする。
 もうひとつの傾向としては、人間とAIの両方の視点から「自分が終わること」を想像する楽曲が多いことで、個人的にはシンガポールのアーティストYeuleのPritty Bonesを思い出した。Pritty Bonesやアメリカ民謡研究会の「終われれれればいいのにね。いつまで続けるんだろうね。」などの曲には電子的なメロディー音が電子機器のビープ音的な生活音へと「還っていく」ように聞こえる瞬間がある。
 芸術はしばしば道具的な有用性を持たないということによって定義されるわけだが、これらの曲は道具もまた、その有用性を規定していた人間がいなくなれば芸術的なオブジェと化すしかないことを示唆している。無用化した建築遺構をトマソンと称して愛好する人もいるそうなので、そういうものへの嗜好というのはある程度すそ野が広いが、ここ数年の現代思想における人新世や絶滅をめぐる議論とも重なる部分がありそうだ。
 歴史的に言えば18世紀後半のゴシック趣味やそれに続くロマン主義などもそうだったはずで、これは文学史の教科書では18世紀の啓蒙主義に対する揺り戻しと説明される。抽象化して「合理主義が強くなると、それを中和して心のバランスを保とうとするような文化が出てくる」というテーゼにまとめることができるだろう。
 「古代への情熱」がナショナリズムによって使い果たされ、環境・性・メンタルヘルスもSDGs的啓蒙が包摂しますとなった現代だと人類がいなくなりあらゆる人工物がオブジェと化した「未来へのノスタルジー」(撞着語法であるが)を抵抗の拠り所とするほかないのかもしれない。(おしまい)

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