Hyper-Popにおける技術的複製、女性性、身体

ベンヤミンは次のように書いていた。

手工的複製は、通例、真正なものによって偽物の烙印を押されてきた。それに対して、技術的複製にはこのことは通用しない。それには二重の理由がある。第一に、技術的複製はオリジナルに対して、手工的複製と比べて自律性の度合いがより高い。たとえば写真において技術的複製はオリジナルに対して、手工的複製と比べて自律性の度合いがより高い。たとえば写真において技術的複製は、自由に調節可能で、視点を好きなように選ぶことのできるレンズによってのみとらえることができるが、人間の目ではとらえることのできないオリジナルの局面を際立たせることができる。あるいは拡大やスローモーションといった手段によって、自然の視覚ではまったくとらえることのできない画像を記録する。それが第一の点である。第二に、それに加えて技術的複製は、オリジナルの模造を、オリジナルそのものが到達することのできない状況に運んでいくことができる。とりわけ、技術的複製によって、オリジナルは――写真というかたちであれ、レコードというかたちであれ――受容者に歩み寄ることができるようになる。大聖堂はその場を離れ、芸術愛好家のスタジオで受容されることになる。ホールで、あるいは野外で演奏された合唱曲は、部屋のなかで聴くことができるようになる。(301頁)*

本稿で取り上げたいのはSophieの"Immaterial"とYeuleの"Pixel Affection"であるが、ベンヤミンのこの指摘が丁度よい出発点になってくれるのではないかと思う。Hyper-PopとLGBTQ的な政治の相性のよさはしばしば指摘されてきた。それにはHyper-Popというオルタナティブ空間がRina Sawayamaのような音楽的な才能と政治的・社会的な文脈を読み取る知性を兼ね備えたアーティストが活動するのに適していたという事情もあるのだろうが、特筆すべきはやはりSophieやArca(あるいは日本の長谷川白紙も? )のようなトランス女性や、ジェンダー・クィアなアーティストの活躍である。 端的に言えば、ボーカルを電子的に変声することが当たり前のHyper-Popにおいては男性の声帯を持つ人でも、女性ボーカルによって歌われたかのように聞こえる楽曲を作成することができるし、ステージパフォーマンスが特権的な位置を占めることが少ないという電子音楽らしい事情も、こうしたアーティストの参入を容易にしたという背景があるだろう。
 トランス・ジェンダー的な問題を正面から取り上げたHyper-Popの楽曲として、Sophieには"It's Okay to Cry"、"Faceshopping"、"Ponyboy"、それからArcaの"Nonbinary"などがある。ただここではSophieの"Immaterial"に触れておきたい。この曲はSpotifyではSophieの楽曲中で最も再生数が多く、彼女の代表トラックといえる。タイトルの"Immaterial"は日常的な文脈では「とるに足らない」の意味で使われることがほとんどのようだが、"im- + material"(物質的ではない)の意味もかけられているのだろう。

Without my legs or my hair
Without my genes or my blood
With no name and with no type of story
Where do I live?
Tell me, where do I exist?

この問いかけはおそらくポップ・ミュージックがかつて到達しえたもっとも個人的な表現のひとつであり、電子的な音声によって装われた人工性と意味内容の切実さとのアンバランスのためによりいっそう感動的だ。
 Hyper-Pop的な表現がトランス女性が女性として楽曲を制作・発表することを容易にしたが、サイバー空間において進行する女性性の記号化は、身体的に女性であるということと、社会的に女性であるということの結びつきを不確かにする一面がある。そのような不安を主題化している曲として傑出しているのがYeuleの"Pixel Affextion"だ。

Wasted
Wasted in a cyber dimension
Pour my heart into simulation
Digital in reciprocation
I'm starting at the screen you live in

という印象的なAメロで始まるこの曲はサイバースペース上でのみ接触できる"you"へのラブソングともとれるが、MVはこの"you"を他人ではなくサイバースペースにアップロードされる自己イメージのこととして解釈する。日本文化(特に押井守や、エンディングのススキ野原の光景は後期の黒澤明だろうか?)へのオマージュにあふれたこのMV においては、 サイバースペース上に保存される理想的自己のイメージと現実の自分の身体とのあいだに原理的に解消不可能なギャップが存在することを悟ってしまった主人公(Yeuleが演じている)が、サイバースペース上の自己アバターを用いて現実の身体を一刀両断することでそのギャップの「最終的解決」をはかる。Joy Songによる"Pretty Bones"はMVはこうした主題を現代アート的な手法で展開でしており、こちらも圧巻。

*ベンヤミン、ワルター「技術的複製可能性の時代の芸術作品」『ベンヤミン・アンソロジー』山口裕之編訳、河出書房新社、2011年。

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