『オレが私になるまで』における父

≫まず、日本のイギリス研究者――2つの「帝国」としての過去をもつ国に関係をもつ者――のはしくれとして、ロシア軍のウクライナにおける軍事行動の即時停止とウクライナ領からの撤退を望みます。また、日本に住むウクライナおよびロシアにゆかりのある人々の一個人としての安全と尊厳が何者によっても脅かされないことを望みます。≪

 さて、いまこんなことを書いていていいのかという気持ちもないといえば噓になりますが本題に入ります。佐藤はつき『オレが私になるまで』(1~4巻、株式会社KADOKAWA、2019ー2021年)というマンガを読みました。まだ完結していませんが、ネット書店の紹介ページにあるディスクリプションからはちょっと想像できないくらい緻密に作られています。一回読んだだけだとなかなか分からない(私がいい加減なだけかもしれませんが)部分もあると思うので、ぜひ2回読んで頂きたい。

 この『オレが私になるまで』は思春期にうまく自己成形できずに苦しむ主人公の物語という点で『僕の心のヤバイやつ』に似ていると思うんだけど、どちらの作品も主人公の父親がいないことにされていて、これは散々いわれてきた家庭内におけるサラリーマンの居場所のなさとも何か違うような気がしてたんだけど、いまたまたまレイモンド・ウィリアムズの『想像力の時制』(みすず書房、2016年)というエッセイを読んでいたら「「愛すべき実の父親」とその父とは全然ちがう「社会的な父」を同時にもつ」という経験について語っていて、これなんじゃないかと思った(pp. 16)。

 ウィリアムズにおいてはおそらく20世紀中葉のフォーディズムを基盤とした経済成長と福祉国家化によって階級上昇が可能になったことによって、そのような体験をしたのだと思う。つまり労働者階級として働いている父親は別にいるんだけど、自分は職業的なスキルや倫理を大学の英文科という「社会的な父」から学ぶことになり、結果的に「実の父親」の生きざまを継承することはできなかった、ということを言っているのだろう(ウィリアムズは労働者階級の家庭に生まれてケンブリッジ大学の教授になった)。

 現代日本を舞台とする上記2作品においては、産業構造や雇用形態、価値観の変化によって「父親の生き方」を参考にすることが出来なくなっているのだと思う。これは従来型の仕事が忙しいからという理由で子育てに関わらない(関わろうとしない)父親という表象のあり方とは根本において異なる。その証拠に上記2作においては父親の存在が描かれることがないばかりか、存在が言及されることすらほとんどなく、その不在を嘆いたり非難するようなジェスチャーもほとんど見られない。例えば、『オレが私になるまで』1~4巻では、私が確認できた限りでは父親への言及は第1話に1回と、3巻第33話の後に「おまけ」のように挿入されている人物相関図のなかで「単身赴任中([子育てについては]放任)」と説明がある、その2箇所だけである。

 父親はもはやその不在が嘆かれることさえなく、少なくとも主人公の自己成形に関する限りでは「いてもいなくても関係ない」存在なのだ。

02/27/2022追記
 もういちど第1巻を読み直したらちょくちょく父親出てました(pp. 10, 70, 128, 140)。ただし、はっきりと顔が描かれているのはpp. 10だけで、以降は主人公の回想・思念のなかで後ろ姿またはシルエットのような形態で登場するのみ、物語展開に関与することもないため、上述の論旨に変更はありません(あとアキラが転向・引っ越しした後に父親別居となった背景には、アキラが肉親を含めた男性一般が苦手になったという事情もあったのかもしれません)。

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