週休3日でも、日本が強くならない理由
受験秀才が失うかけがえのないもの
受験秀才はろくなもんじゃない、とこの前言った。それなら落ちこぼれ、劣等生のほうが、「問題意識」があるだけマシだ、と言った。
受験秀才は、学校の先生にもたくさんいる。
そういう先生を束ねる受験秀才が、文部科学省(以下文科省)の官僚だ。そして、公立の学校は文科省の監視のもとに教育を行うわけだ。
その教育は、文科省の認定した教科書を使って、指導要領にしたがって行うことになっている。
そのクライマックスが大学受験であり、その象徴が東大受験ということになる。
私学も、似たようなものだ。
私学のビジネスモデルは、東大に何人入学させたか、それだけだ。
公立の官製教育を先鋭化しただけで、大学受験を強く意識していることは、
変わらない。
日本の教育システムとは
もちろん教育基本法とやらがあり、国は教育を定義し、教育の目的も明文化しているのは知っている。
しかし、実際行われていることは、さっき言った受験を意識した教育である。
ありていに言えば、傾向と対策だけやっている教育だ。
受験を意識すれば、必然的にそうなる。
それが最も効率がいいからだ。
受験産業、塾や予備校、そして一部の受験校は、大学別の傾向と対策に絞って教育を行う。
そして要領よく、なるべく時間をかけないで正解にたどり着く方法を教える。キミたちはそれを覚えるだけだ。
一昨日の坂井修一先生の指摘は、こうだった。
この受験中心の教育システムってのは、ようするにバカを製造しているんだよ。
バカ、つまり、自分で考えず、模範解答を覚えるだけのひとだ。
正しい答えは、参考書の巻末に書いてあると考える人だ。
しかし、受験に受かるためには、それを覚えるしかない。
でもそれと引き換えに、思考力とか応用力は奪われる。
ましてや奇想天外な答え、などが出てくるわけない。
問題自体が間違っている、それだって立派な答えだけれど、
反論は一切許されない。そういう態度自体が忌み嫌われる。
キミ達がせっせと答えを覚えている間に、諸外国の高校生は、先生や仲間とと議論し、視点を豊かにし、本質を見抜く力をつける。
かくしてどんどん日本は考える力や応用力、創造性を失っていく。
大人になってからでは遅いよ
昨日テレビで識者がこんなことを言っていたよ。
僕は内心叫んだよ。「できねぇ」って。
鉄は熱いうちに打て、これは真理だって。
じゃあ、どうしたらいい。
受験をなくすんだ。受験自体を。
誰でもスキな大学に入れる。
でも卒業は超むずかしい。
大学はそもそも勉強したいキミたちが、勉強するために入るところだから。
文句ないよな。
学校は態度を教えるところ
そして、高校は教育の目的をこう変える。
教育は教えることじゃないんだ。キミが自分から学ぶ、ことなんだ。
学校とは、その態度を身につけるところなんだ。
僕は、5年前、スロベニアで行われた「世界経営学大学教員トレーニングキャンプ」でそのことを学んだ。俺は今まで間違っていたと、気がついた。
この図がそれだよ。
この図は、教育で最もむずかしく、価値のあるものが「姿勢」であることを教えている。
どんな姿勢だ。
自分からそれを取りに行く姿勢、だ。
教わるんじゃない、自分から学ぶ、姿勢だ。
自分から学ぶ姿勢を身につけたか、チェックする方法がある。
教わる、と学ぶ、は似ているようで天と地ほども違う。
受け身は人生をつまらなくする。
先生の言うことをおとなしく聞いて、何も考えず、それを飲み込む。
その姿勢をずっと強いられた人生。
それから開放されなくては、楽しくない。
学校を卒業した後、教わることの苦しさをから開放された日本人は、その後勉強なんてしない。
学ぶことの楽しさを覚えたアメリカ人は、自ら勉強する。
この差、なんだよな。
高校生のキミが、こうした閉塞状況をぶち破るにはどうしたらいいか。
ふふ、それも自ら考えてくれたまえ。
いろいろ言ったけれど、決してキミたちに僕の意見を押し付けるつもりなんかないよ。個性なんかいらない、ひとと同じでいい、そういう意見だって当然あるよね。
今日も最後まで読んでくれてありがとう。
じゃあ、またあした会おう。
野呂一郎
清和大学教授/新潟プロレスアドバイザー
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?