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私がフィルムカメラを手にしたわけ

 実家を売りに出した。家の中をカラッポにする必要があった。
 膨大にあった、物という物を手離した。
 うちには書庫もあったし、もともと物入れも多めに作られていたから、捨てる物の分量は、普通の家の2軒分はゆうにあったに違いない。
 それに引きかえ、今、私が住んでいるマンションの部屋は、もう一杯一杯。よほど大事な本や物品以外は持ち込むと収拾がつかなくなるおそれがあったので、意を決して極限まで絞り込んだ。

 けれどなぜか、捨てられない物があった。
 昔、父が使っていた、古いフィルムカメラ。Yashica 72-E。
 私が生まれた年に、私を撮るために買ったカメラだ。
 今考えてみれば、そのカメラが置かれていた場所には、私が20代の頃に買ったオート一眼レフカメラも、初期のデジタルカメラ2台もあったはずだ。しかしなぜか、それらにはまったく意識が向かなかった。すり切れた革ケースに入った、一番古いカメラだけを持ち帰った。

 見た目、金属部分の腐食が進んでいて、私自身は使わないし、使えないだろうと思った。
 ホールド部分の巻革も、へりがめくれている。
 ファインダーも、少し曇って、カビが入っているように見えた。フタを開けると、やはり中にも汚れはあるようだ。
 ただ、シャッターをそっと押してみると、割合軽い感触で、カシャ、と動いた。

 どうせもう写真は撮れないだろうけれど、せめて外側だけはきれいにしておこうか。そうすれば、インテリアとして飾っておけるだろう。
 そう思って、ネットで、機材をクリーニングしてくれそうな所を探してみた。近場の大きな街に、そういう店が見つかった。私はそのころ膝を悪くしていたので、送ってもいいですか、とメールで尋ねたら、宅配便でのお預かりも可能です、という返信が戻ってきた。

 ただ、今はこういうカメラの受付台数が多いので、修理が完了するのは多分3ヶ月半後になります、と書いてあった。それで結構です、と返事をした。3ヶ月半後というと、10月末ぐらいかな、その頃にはさすがにかなり涼しくなってきているだろう。もしも直って、使えるようになっていたら……
 その先は、すぐに打ち消した。レンズ付きフィルムが登場して以来40年近くも放っておかれたわけだし、あんなに傷みが進んでいるんだもの、一応修理可能かどうか見てくれるとはいえ、外見だけでもきれいになれば御の字だ、と。

 それからまもなく、人生で初めてというぐらいの暑さが続くようになり、そんな中を毎日毎日勤めに出た。
 暑い暑いとみんなでこぼし合いながら、しかし私は、気がつくとカメラのことを考えていた。カメラの保管場所は多少は涼しいんだろうか。私は、倉庫の薄暗い隅に積まれている、小さな段ボール箱を思い描いた。一体いつ頃になったら、開封して手入れしてもらえるのだろう。9月にでも入らないと無理なのかなぁ……。
 そんな風に思いながら、いつしか、Youtubeのカメラファンの動画ばかり見るようになっていた。
 今は若い世代にも、フィルムカメラに魅力を感じる人が何人もいるんだ。首から提げて颯爽と歩きながらの街フォト、格好良いな。また外国人も案外、日本のヴィンテージカメラが好きなのだな。動画には毎回、新しい発見があった。

 ところが。まだしつこく暑さの残る9月1日、店からメールが届いた。読むと〈依頼品の修理が完了しましたのでお届けします〉とのことだったので、びっくりした。3ヶ月半もかかるという話だったのに、どうして? 直せない部分が多かったんだろうか? 困惑して尋ねたところ、〝納期が早くなりましたのは、私の方がお盆休み中も仕事をしていて、その間にたまたま時間が取れたためです。大きな不具合箇所等は残っておりませんので、ご安心ください〟とのお返事だった。

 奇蹟だと思った。私は、むかし父が使っていたものだということは伝えていたが、〈形見〉とは書かなかったし、作業を急いで欲しいとも書かなかった。あんな、熱中症で倒れる人が続出するさなか、仮になるべく早くと強要したところで、絶対に断られただろう。
 それに、いくらお盆休み中の仕事に時間の余裕があったとしても、それこそ他の修理待ちのカメラの中には、マニア垂涎、修理屋さんもときめくような名品がいくらでもあったに違いない。日本製のハーフカメラとしては目立つ存在ではないあのカメラを、あんな暑い最中に、こつこつと少しずつ直していてくれたのだ。それも、本当にちゃんと使い続けられるようにメンテナンスして戻してくれた……

………じゃあ、撮ってあげるから、そこにお母さんと並んで。
 遠い日の父の口調が、記憶の中によみがえった。

 それからすぐにフィルムを購入して、カメラを使い始めた。
 今、フィルムは高いし、ハーフカメラなので枚数は2倍撮れるし、そのうえ操作にもまだ慣れない。なので、撮り進めるスピードは本当にゆっくりゆっくりだ。それに、現像が出来る写真店は少し離れているので、撮り終わったからといって、すぐに現像やデータ化をしてもらえるわけでもない。つまりは全体に、実にスローきわまりない趣味と言える。
 でも、写したい物までの距離を目視して、絞り値を決め、シャッター速度をまた考え、と、もたつきながら一枚ずつ写真を撮ってゆく時間は、意外にも心地良い。最新のデジタル一眼レフを、サッと構えると瞬時にピントが合い、重要な動きを逃さず爆速で連写!! などというのとは、同じ〈写真撮影〉といっても全くカテゴリーが違う行為だな、と思う。そして、器用ではない私には、オールドカメラのスローペースがぴったりだ。

 まだピントがきちんと合わせられなかったり、手ブレしたり、色々気をつけると今度は構え方が斜めになっていたりして、データ化された画像を見ると落胆することも多い。でも、ごくまれに、雰囲気のある風景が撮れているのを発見すると、〈フォトグラファー〉になれたようで、それは錯覚だとわかっていても、ちょっと気分がいい。
 今年はこのカメラを、去年以上に、散歩や街歩き、小旅行などに連れてゆきたい。せっかく、また活躍出来るようにしてもらえたカメラだもの。この大事なヴィンテージ機と一緒に、アマチュアフォトグラファーへの夢を目指したい!

外壁の質感が気に入った一枚。モノクロフィルムで。

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