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「ありふれた演劇について」41

以前に、小劇場演劇というものはすでに終焉しているのではないか、という文章をここに書いた。

ここでいう小劇場演劇という言葉は、小さい劇場ならではの表現形式、というよりも、文化の一潮流という意味で用いている。戦後のカウンター・カルチャーとして生まれた小劇場演劇が、日本の経済成長とともに政治運動から離れ、商業主義といわば「結託」することによって「ブーム」となり、その路線は現在にまで続いてきたが、その視座にいる限り、小劇場というものにはもはや意義を見出せなくなっているのではないか? というのが大筋の内容だ。

とはいえ、小劇場という場所は変わらず存在しているし、自分だって小劇場での創作を続けている。そしてそこには、やはり小劇場ならではの何か、というものは存在しているはずだ。今だって小劇場で作品を観て、感動したり感銘を受けたりすることはあるし、小劇場という場所がすべて失効したとは考えたくない。今年の秋には、円盤に乗る派はこまばアゴラ劇場という、客席数60程度のまさに小劇場での上演を予定している。どうせ小劇場らしい場所で上演をするのなら、まさに小劇場というものについて深く考えてみたいと思っている。

ところで、小劇場というのは劇場である。これは当たり前のことかもしれないが、この時点で大きな問題がある。例えば散文や詩なら、単行本で読もうが文庫本で読もうが、他人の朗読を聞こうが、本質的には変化がない。音楽であれば、CDでも、レコードでも、ストリーミングでも、あるいは自宅で聞いても通勤中に聞いてもコンサートホールやライブハウスで聞いても、(もちろんいくぶん体験に差はあるとはいえ)同じように鑑賞できる。絵画や彫刻なら、美術館にあるものも個人宅にあるものも駅前や公園にあるものも、同じ作品であるならそれは同じ作品だ。しかし、劇場での演劇というものは、どうしても「劇場」という制度が先に立つ。もちろん、この「劇場」という概念は、専門の建築物を離れて野外や公共空間や仮想空間にまで拡張可能だ。しかしいずれにしても、作品そのものがはじめに「劇場」ありきなのである。

つまり、小劇場演劇といったとき、それは「小劇場という制度が先に立った演劇作品」という風に換言可能だ。そこに小劇場演劇というものの可能性があり、限界がある。

かつての小劇場運動というものは、現行の劇場の制度とは違う、オルタナティブな制度としての「劇場」(作品の先に立つもの)を新たに自分たちの手で作り出していく、ということに意義があったはずだ。それは空間としては地下室やテント小屋だったりしたし、意味合いとしては一般の社会とルールや秩序の違う場所だったりした。80年代のブーム以降にはその運動性は失効するが、それでも企業やメディアと結託して作られた「小劇場」というカルチャーはそれぞれの作品のアイデンティティの中に温存されていたと思うし、「小劇場ならではの作品」(その意味合いは時代によってニュアンスが微妙に異なるが)が常に生み出されてきた。

いずれにしても、これら「劇場」は恣意的に作られたものであり、誰かの意思あるいは集団の運動によって変化するものであり、もっと言ってしまえば、結局は「人の作り出したもの」である。もちろん、国立の劇場などに比べればその成立のプロセスは全く異なるものの、結局あらゆる劇場は「人の作り出したもの」を前提にせざるを得ず、それは大劇場も小劇場も変わらない。

「人の作り出したもの」を前提とせざるを得ない演劇は、例えばAIによる創作は難しいだろう。確かに、AIでも脚本は書けるだろうし、バーチャル空間だったら俳優や大掛かりな演出も、客席も含めた劇場という機構すら作り出すことは可能だろう。しかし、結局観客を集めて客席に誘導するためには、人間の人間による制度が必要なのである。広報を打つことや、チケットを売ること、劇場に案内することは、例えAIが業務遂行可能だとしても、社会という場にいる人間を相手にしなければいけない以上、どうしても人間の制度から離れることは不可能だ。そしてそれを前提とする限り、結局その演劇そのものも人間の制度から離れているとは言い難い、と私は思う。演劇という体験は劇場の中だけで完結するものではなく、情報を得てからチケットを買い、劇場に向かうプロセス、さらに言えば、そこから日常生活に帰っていくまでも含めて演劇なのだ。

問題は、今の社会において、それこそAIの台頭も含め、「人の作り出したもの」という制度が(なくなりはしないものの)形を変え、ばらばらになり、意味を失いつつあることだ。カウンターの対象となるような制度などなく、体制は形骸化し、世界は誰かの意図によってコントロールしたり変革したりできるものではなくなっている。気候変動も重大なトピックだ。これまで人間が支配し、コントロールできると思っていた自然の側が、人間に対して予測不可能なものとして襲いかかってくる。人間のことは人間がどうにかできるという考えは非常に20世紀的なものなのかもしれず(20世紀の大きなトピックは革命と戦争だった)、今後はいかに「人間にとってままならないもの」も含めて考えられるかが重要になるだろう。だとするなら、オルタナティブな制度を作れる可能性はあるものの、結局は「人の作り出したもの」の外に出ることができない、という小劇場演劇に対して、どのような未来を想像することができるだろうか?

ひとつは、外的な要因を遮断し、あくまで劇場の中のみで完結するのが演劇作品である、という態度を徹底することだ。これは従来「美食家的」であるとか、「弦楽四重奏的」として批判されてきた態度とも言える。要するに政治的な態度を払拭してしまうということだが、決して可能性がないものではないだろう(これを批判してきたのはまさに20世紀の人間たちなのだ)。作家主義に徹すること、誰かの作った制度を拒否し、しかし新たな制度をそこにぶつけるのではなく、既存の制度の「中に」個人主義的な制度を作ってひきこもることは、ある意味現在の社会の中でリアリティのあるあり方だと思われる。

もうひとつは逆に、徹底的に外部と政治的に干渉していくという態度だ。いくらテクノロジーが発達しても、政治が人間の領域から離れることはそうそうないだろう。最後まで人間の側に残された分野が政治なのだとしたら、人間の制度から逃れることのできない演劇がこれに関わり続けるのはある意味当然と言える。もちろん、政治性はこれまでも演劇において重要なトピックだったが、まさにこれにこそこだわり続けることは、演劇の抱くことができる未来像のひとつだろう。

そして、私は上のふたつとも違う、別の可能性を考えているのだが、それは「小劇場の廃墟で演劇をやる」ということだ。これは非常に概念的な話であって、必ずしもまさに建物としての廃墟でやることを意味していないのだが、小劇場というものをすでに死んだものとして捉え、その死骸のうえで演劇をやるというなら、まだ小劇場という空間にも意味があるのではないかと思うのだ。

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