シャボテン日記(2019/8/30)

 肌寒いような風が足にふれ、眠っていたぼくはタオルケットのなかで体をまるめた。
 クーラーが効きすぎている、のではない。ねぼけ眼であたりを眗(みまわ)すと、荒涼とした夜の沙漠のような場所に一人でいるのだった。どの方位にも見晴るかすかぎり青褪めた土地がつづき、なだらかな丘陵がえんえんと地平線まで連なるそのさまは波のある海とも見紛う。寝ていたベッドはさながら小船か、ぼくはまるで漂流しているみたいだ。奇妙なことに、地面はどこまでも夜のうす暗さに呑まれているくせ、空ばかり真昼のように白っぽく、喩えばネガ・フィルムのそれみたく黒いひかりを放つ三日月や星などが鏤んでいる。夢か。あるいは、気でも狂ったのか。やがて暗さに眼が慣れてくると、一帯に、無数の柱のようなものが浮かびあがった。人影かと思ったが、それはすべてサボテンの鉢だった。
「おや、きみも来たのかい?」
 シーシュポスの聲だった。驚いてベッドから身を乗りだすと、かれはすぐ足許にいた。
「シーシュポス! でも、きみは枯れてしまったはずじゃ……」
「そうだよ、誰かさんの水の遣りすぎで」
「うっ、なんだか棘のある言い方だね……」
「サボテンだもの」
「本当にごめんよ……」
「もともと短命の種だから覚悟はしていたけれど、まさかこんなに早いとは」
「ごめんって……」
「まったく、もっと深く反省したまえ」
 シーシュポスは愉快そうに笑った。
 冷たい風がふきぬけて、タオルケットがばたばたと旗めく。夜のしじまの沙漠にはどこまでもサボテンの立ち姿しかなく、その真ん中にぽつんと置かれたベットはどうにも場ちがいに思えた。
「シーシュポス、ここは一体どこなの?」
「ここはサボテンの天国。通称、サボ天国」
「ダジャレじゃん」
「まあ、人間のきみにはこう云ったほうが分かりやすいのだろうね。"アストラル・カクタス・パラレル条理空間"、とね」
「いや、なに1つわからないんだが」
「やれやれ。人間ってのは本当に大事なことをちっとも知らないんだから」
 周囲のサボテンの数は、万とも、億とも思えた。とても算(かぞ)え切れない。兎に角いろいろな種類のサボテンたちが、砂漠のなかで思い思いに佇んでいるのだった。
「で、なんなの? そのアストロなんちゃら空間ってのは」
「アストラル・カクタス・パラレル条理空間。うーん、説明するより見てもらったほうが早いかな。ねえ、ベッドから下りてきなよ」
 それ。と、ベッドから飛び降りると、ぼくの身体が小さくなったのか、あるいは世界全体が大きくなったのか、いつの間にかシーシュポスはぼくと同じくらいの背丈になっていた。元々それなりに大きかった一帯のサボテンたちは更に巨大となって、どれも見上げるほどの高さだ。沙漠のあちこちに塔が建っているような具合で、ベッドの上から眺めていたのとはずいぶん風景がちがう。
「ああ、吃驚した」
「なんだい、そんなの普通じゃないか」
「そうは云うけど……」
 ぼくが手近にあった巨大なサボテンの鉢に触れようとすると、
「あっ、こら!」
 と、シーシュポスはやわらかい棘でぼくの手の甲をぷすり。
「痛っ、なにするんだよ!」
「いや、それはこっちの台詞だよ! きみこそ下手にサボテンに触るんじゃない、場合によっちゃ人死にが出るぞ!」
「えっ……」
 意味はわからなかったが、ぼくは怖くなって手を引いた。
 シーシュポスはじぶんの四次元鉢の土のなかを捏ねるように探って、大型のテレビのようなものを取り出した。毎度これは不思議に思うことだが、一体あの小ぶりな鉢にどうやってあんな大きなものが収納されているのか。しかし、いちいち尋ねるのは野暮ってものだろう。
「地上デジタル・テラ・ヴィジョン〜」
「テラ・ヴィジョン?」
「そう。これで地球上の様子をモニターすることができるんだ。えーと……」
 電源をONにし、シーシュポスがぱちぱちチャンネルを操作すると、やがて画面には一人の男が映しだされた。初老の、頭髪がすこし寂しくなってきた男である。険しい顔をした、なんとも気難しそうな人物だ。
「誰なの?」
「さあね。どこかの知らないおじさんさ。きみ、ちょっとそこの鉢を右に2度だけ回転させてみてくれない?」
「こ、こうかな?」
「ほんのちょっとだけだよ。ぴったり2度、それ以上は動かさないこと。ゆっくり、ゆっくり……はい、ストップ!」
 サボテンの鉢はぼくの腕が廻りきらないほど巨大だったが、やってみると案外とかるがる動かすことができた。
「やれば出来るじゃないか。それから、西南西の方角へ向けて5ミリ」
「西南西ってどっち?」
「呆れた。星をよく見なよ、あっち」
 空には黒い星座群。そのシーシュポスの棘さす方向へ鉢を押すと、これもやはり容易く動かすことができるのだった。なんだか力もちになった気分。
「これでどうなるの?」
「ほら、モニターをご覧よ。今度のは、さっきの男の数週間後の未来を映してる」
 画面のなかでは、初老の男が若者たちに寿司を奢っていた。豪奢だ。いかにも高級そうな寿司屋の店内である。さあ遠慮なく、好きなだけ食べていいぞ! と、男はにこやかに喋りかけているようだった。なんて気前のいいひとだろう。しかしシーシュポスが云うには、この太っ腹な態度はたったいまサボテンの角度と位置をずらしたことによって生じたのらしい。にわかには信じ難いことだが、サボテンの鉢を元に戻せば、その男は吝嗇家のまま一生だれにもなにかを奢るような機会をもつことはなく、まして寿司をふるまうなんて到底考えられないケチケチした余生を過ごすのだという。表情までも、数週前とはうってかわって人好きのする好好爺といったふうで、その変貌ぶりにぼくは驚いてしまった。
「でも、本当かなぁ……」
「失礼な。本当だとも!」
 アストラル・カクタス・パラレル条理空間に置かれたサボテンたちは、その1つ1つが誰かの運命と関わっているのだという。その角度が1度でも、その位置が1ミリでも変われば、その生き方ががらりと変わってしまうのらしい。シーシュポスの教えるところによれば、この辺り一帯がとくにヒト用のサボテン・エリアというだけで、他にもイヌとかネコとか、アザラシとか、はたまたセミや芋虫、果てはカビやキノコの類いまで、あらゆる生命に対応する鉢が揃っているのだというから驚く。この沙漠の途方のなさが、ぼくはすこし怖くなってきた。
「まるで落語の”死神"みたいだね。ほら、ロウソクの火をふき消すと寿命が、ってやつ」
「ここはもっと高級な仕組みさ。1つ1つのサボテンはだれか個別の生に関わっているだけじゃなく、他のたくさんのサボテンたちとのネットワークのなかで別の役割も担ってるんだ。たとえば、そのサボテンはさっきの寿司おじさんの人生を左右すると同時に、あるサボテン連合のなかでは地球上のシロナガスクジラの個体数の増減に関与しているし、また別のサボテン連合のなかではソマリアの経済状況にも影響力を持ってる。ふむ、1ぴきのエリマキトカゲの雄の求愛が成功するかどうかにも一役買ってるみたいだね。いっけん無関係とも思えるものたち、じじつ無関係なその世界のものたちが、アストラル・カクタス・パラレル条理空間上では密接に関わっているというのはざら(傍点)にあることなのさ」
 そんな大変なものを寿司ぐらいのことで遊び半分に移動させてもよかったのだろうか? 森の奥ふかくで恋に惨敗したエリマキトカゲがさめざめと泣いているシーンを想像し、ぼくは居たたまれない気持ちになった。
「シーシュポス、きみだってサボテンのくせにウロチョロしていていいの?」
「なんで? ぼくは調整サボテンだよ?」
 然も当然というふうに首を傾げられ、それ以上は聞かなかった。
「ねえ、どこかにぼくのサボテンもあるの?」
「勿論あるさ、全人類のサボテンがここにはあるんだもの」
「見てみたい気がする」
「うーん、ここからけっこう遠いよ? まあ、付き合ってもいいけど」
 シーシュポスはふたたび四次元鉢の土のなかを捏ねるように探って、車のハンドルみたいなものを取りだした。
「ベッド・コントローラ〜」
「何それ?」
「とても歩いていける距離じゃないからね。ほら、乗りなよ」
 それ。と、シーシュポスに続いてベッドに飛び乗ると、こんどは飛び降りたときとは逆に、かれはみるみる小さくなってゆき、周囲のサボテンもすべて元のサイズに戻った。一体どういう仕組みなんだろう。手にしていたハンドルもミニカーの部品みたいに縮んでいた。世界がミニチュアになったように感じた。
「発進!」
 そう云ってかれがハンドルをめちゃくちゃに動かすと、ベッドはふわりと浮かびあがり、夜の沙漠をぐんぐん離れ、やがて白い夜空と黒い星々のひかりのなかを飛行しはじめた。が、きっと運転が下手なのであろう。ベッドはまるで酔っぱらいのような千鳥足でふらふらと空を飛んでいく。
「……シーシュポス、運転できるの?」
「もちろんさ、ほかの調整サボテンなかまからは”シューマッハ"って呼ばれてるくらいだ」
「……そうなんだ」
「だいたい120日くらいかかるかな。きみのサボテンのところに着くまで」
「えっ、そんなに!?」
「じゃあ、やめとく?」
 ぼくはほんのすこしだけ悩んで、それから首をふった。
「そうこなくっちゃね」
 そうして、ぼくらは果てしない沙漠を飛行しつづけた。他愛のない話をして、ときどき笑ったり怒ったり。空から瞰下ろすとどれも同じような無数のサボテンたちの影が遠くから流れてきては遠くへと消えてゆく。だんだん退屈になってきたな。ぼくのサボテンまでは、まだまだたどり着く気配もない。
 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?