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90回目 "The Wars Against Saddam" を読む(Part 5)。Kuwait に武力侵攻したまま、Saddam が欧米勢の撤退要求を拒絶する中、1991年1月17日の夜、米軍のミサイルが Baghdad を襲います。

国連がその本部のあるニューヨーク時間を基準に、1991年1月15日 0 時を期限として、イラク軍にクウェイトから撤退する様に要求していました。

John Simpson を中心としたBBCの取材チームは欧米軍の反抗の開始を想定してイラクへの入国を果たします。そして Baghdad の有名ホテルの高層階の部屋から街にミサイルが降り注ぐのを自身の目で観察、撮影します。

イラクにこのようなタイミングで入国出来たことには、ジャーナリストたちによる、それなりの努力があったのです。

イラクによるクウェート市全域の武力支配が続く中、Amman (隣国のヨルダンの首都)でイラクの外務大臣が会見を開きクウェートに閉じ込められている何万人もの外国人の取扱い(出国・帰国をどのように実行するのか)の説明会が開かれたのです。その終了時の混乱の中で、Simpson は自分の顔を知っていた外相にいきなり口頭で入国許可が欲しい旨、伝えます。予想に反してその外相、その場の即断で入国許可の口約束をくれたのでした。もう一つ Simpson が驚いたのはそれが空手形でなかったことでした。

そんな経緯で、世界各国のジャーナリストがイラクに入国できることになりました。しかし入国したばかりのジャーナリスト達には、それぞれの本国政府から、バグダッドへの爆撃が始まると見込まれる故、即刻バグダッドから退出しろとの要請が発せられます。その結果、退出したジャーナリストも多かったのですが、残った者も少なくなかったのです。


1. 爆撃下の街、幾つものミサイルが襲う夜間のバクダッドをホテルの上階から観察し、翌朝にその惨状を見て廻りレポートします。

1月17日の夜、爆撃の始まることが必至であることから、ホテルの客も関係者も、おそらく近隣の人たちもがホテルの地下に退避した為、地下の部屋は人がひしめき合い、体臭も充満します。Simpson のチームメンバーはここを抜け出し守衛たちの制止を振り切り自分たちの部屋に戻ったのでした。

[原文 1-1] Anthony Wood and I found each other in the crowd and agreed to make our way up to our rooms, where we could film what was happening. No matter how much more dangerous it might be there, anything was better than being down in this mass grave. We had to fight our way, literary, past the guards, but they did not shoot.
  Upstairs, in the silence of the empty hotel, things were much calmer. A group of my colleagues had gathered in one of the rooms and were filming the falling bombs. A 2,000-pound penetration missile struck a building close by; I saw it and felt it, but contrary to what I had let to believe my eyeballs did not implode and my fillings did not come out. For the first time I began to think I might even survive this experience.
[和訳 1-1] アンソニー・ウッドと私は互いに相手を見つけ出し、自分たちの部屋に戻ることで合意しました。上に行けば外の様子を画像に記録できるのです。危険度がいくら高くなるとも、地下室の集合墓地のような部屋よりましなのでした。上に移動する途中、私たちは文字通り守衛たちと一戦を交えることになりました。しかし守衛たち、銃で撃つまではしなかったのでした。
  上層階、客のいないホテルの静けさの中、目に這入るものすべてはいつにない静けさを湛えています。私の仲間たちは一室に集まり、屋外の様子、降り落ちる爆弾の姿を撮影しました。ごく近くにあったコンクリートビルディングに 2,000 ポンドサイズの侵入型ミサイルが命中しました。私はそれを自分の目で見届け、肌で感じ取りました。それまで人の話から想像していたのとは異なっていました。私の目玉は圧し潰されなかったし、はらわたが口から外に絞り出されたりもしなかったのでした。この経験をしたことで初めて、自分がこの爆撃の中でも生き延びられるのではなかろうかという気になりました。

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202, "The Wars Against Saddam" a Pan Books paperback

ホテルの高層の窓から観察・撮影した夜。その翌朝には何とかタクシー運転手を見つけて、その破壊された現場の観察に出かけます。

[原文 1-2] It was the heaviest bombardment any city on earth had undergone since the destruction of Hiroshima and Nagasaki; yet when the morning came, dull and unremarkable, the extraordinary fact became clear that there was no widespread damage. The precision of the weapons, which had been so much questioned, was proven. Baghdad was being systematically stripped of its essential functions as a city: electricity, broadcasting, water-pumping, lighting, communications were all in the process of disappearing; yet when Anthony Wood and I succeeded in finding a driver and got out into the streets we saw that the missile and bombing strikes had been so accurate that, although entire government ministries and other buildings had been destroyed, the areas round them were almost unaffected. Down one side-street we found a building which was probably a branch office of the Mukhabarat. It had been cored like an apple, burnt out, and every floor had fallen down on the one below; yet the glass in the window of the buildings opposite, scarcely thirty yards away was intact.
[和訳 1-2] これは都市部を狙い行う爆撃です。広島・長崎を破壊した爆撃以降において、世界最大の都会に向けた爆撃でした。しかし、これといった催しもなく何の記念日でもなかったこの日、朝が明けると想像を絶する事実が判明したのです。猛烈な爆撃であったのに、街が全滅された訳ではないことが判明したのです。攻撃用武器の精度の高さが、それまでの猜疑心の中、初めて実戦において証明されたのでした。バグダッドでは、大都市に不可欠の公共設備が敵の計画した通りに機能を停止しました。電力、放送、送水設備、照明灯設備、情報交換機能、これらすべてがこの日の朝に次々と停止し始めました。それでも、アンソニー・ウッドと私は運転手を見つけて通りを走り移動することが出来ました。私たちはミサイルや爆弾の命中が驚く程正確に計画された対象を捉えていたことを見届けました。政府の省庁本部や省庁に属する建物がすべて破壊されている一方、それら目標建物・施設に隣接する区域には被害の跡が見つからないのでした。脇道に入り込んで、中央情報局の事務所と思われる建物がリンゴの芯を抉り取るように打ち壊され、焼け落ちているのを目にしました。全ての階の床が直ぐ下の床に垂れ下がるまでに破壊されています。しかしその直ぐ隣の建物は、精々 30 ヤード(10M)しか離れてい居ないのに、窓ガラスも含めて損傷を受けてはいないのでした。

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2. 自身の感情を吐露せずにはおけなくなったのでしょう、Simpson 記者の無力感を印象的な文章で。

次の引用は '35. BOMBING' と題された節、ミサイルが降りしきった夜とその翌朝、ミサイルが終了した午前中のバグダットでの体験です。

一般市民が逃げ込んでいたコンクリート製の地下室もあるシェルター・ビルディングがミサイルで破壊され、シンプソンが数日前に取材に訪れた学校はそのすぐ隣にありました。教室で進行していた女子学生向けの英語の授業(be 動詞人称変化の練習)をしっかりと観察していたのです。

[原文 2]When I went back there, after the war was over, the local feeling was still so great that my driver, a decent man and a good friend, would not let me get out of the vehicle. People would think I was an American and would lynch me, he said. We paused long enough for me to see the sign beside the shelter and the school next door. That confirmed the fear I had had ever since I first heard about the bombing of the shelter.
  It was the place we had visited on the morning the UN deadline ran out. I remembered the dark faces, the sidelong glances, and the English lesson:
  'I am happy, you are kind, he is sad, they are GOOOOOD.'
  Some of those girls would have been in the shelter when the worst death imaginable had visited it.
[和訳 2] 私はこの場所に戻ってその変わり様を見に行きました。この戦争(ミサイル攻撃のこと)が終了したばかりのことで、街の人々の興奮は極限に達しているからという理由でドライバーは私が車の外に出ることを制止しました。このドライバーは常識的で私とうまの合う人間でした。他人は私をアメリカ人だと思うだろうし、そうなればリンチに掛けかねないというのでした。私は長い時間に渡ってその場所に留まったのですが、その結果、シェルターの隣にある学校名の銘板とその校舎があることに気付きました。昨夜の爆撃がこのシェルターにも向けられたと聞いた瞬間から心配していたこと(あの学校はシェルターの隣だったのではとの心配)がその通りであったと分かったのです。
  学校とは私があの日、国連が定めた最終期限が満了した日に訪れていた学校です。私にはその時に接した不安げな表情、横目使いに私を見た生徒達の視線、そして英語の授業の様子が思い出されました。
  'I am happy, you are kind, he is sad, they are GOOOOOD.'
  この時の少女たち、あの、これ以上惨いことはあり得ないと言うべき殺戮が訪れた時刻に、その何人かはこのシェルターに逃げてきていたのでは?と考えました。 

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3. ミサイルによるバグダッドの街の攻撃の後は砂漠地帯で大量のイラク兵が抵抗できずに戦車群の前に命を失ったのです。

米国を中心とする西欧諸国の連合軍が圧倒的に、イランとの戦争で疲弊しきっていたイラク軍をせん滅する様を Simpson はこの節 36. Desert War に「生々しさ」を排除することなく例示してくれます。

生々しい描写の後の締め括りの部分を以下に引用します。

[原文 3] And then, thirty-six hours or so afterwards, late on the afternoon of 25 February, the pool journalists were finally allowed to inspect the site. There was, of course, nothing much to be seen except the Iraqi soldiers who had been lucky enough to surrender: no bodies, no barbed wire, not even any trenches. It was too ugly for the public to be told about, and for that reason it had all been thoroughly tidied away.
  This wasn't a battle like El Alamein or D-Day. In fact it wasn't a battle at all; merely the slaughter of tens of thousands of Third World soldiers armed only with weapons incapable of penetrating American armour. Almost every Iraqi soldier would have willingly given himself up if he had been given the chance. I have never yet seen a war that was noble and glorious, but this one was as noble and glorious as the morning shift in an abbatoir.
[和訳 3] その後、36 時間ばかり後には、2月25日の夕方近くにもなって、ようやくにして、軍への記者登録を済ませていたジャーナリストは戦場の跡への立ち入りを許されました。もちろん大して見るものはありません。幸運にも降伏を申し出ることが出来て被弾を免れたイラク兵士の数人を目にできただけでした。死体がある訳でなく、鉄条網の針金がある訳でもありません。塹壕の跡すらもありません。ここで起きたことは余りにも凄惨で普通の人には聞かせることが出来ないのです。彼ら記者が立ち入ったのは、そのような次第でその惨状がすっかり除去された後だったのでした。
  この時の戦いはエル・アラメインの戦闘や D-Day の戦闘(一進一退の戦い)とは全く異なり、戦闘といえるものでありません。単なる殺戮、それも抵抗不可の第三国兵士の数万人を皆殺しにする作業だったのです。所持していたのはアメリカの戦闘用防具を打ち抜けるだけの性能を持たない武具だけでした。機会さえ与えられれば、降参して武装解除に応じない兵士はおそらく誰一人として居なかったでしょう。私はこれまでに高貴で誉れ高い戦いなど目にしたことはありません。しかし、この時の戦いは(勝者側にとって)高貴で誉れ高い戦いであったのです。ただしアバトーア(屠畜場)で早朝シフトを終えた作業員の達成感のそれなのでした。

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4. Baghdad へのミサイル攻撃は一晩、一か月後の砂漠地帯での戦闘は 40 時間で完了。Saddam Hussein の軍隊は完敗でした。

しかし、その結果 Saddam Hussein は大統領の地位は固まったと Simpson は解説します。

[原文 4] After forty hours of relentless advance, the Americans had effectively destroyed the resistance of the Iraqi army. This was an extremely dangerous moment for Saddam Hussein. Almost as soon as the air war had begun, more than a month earlier, it had been plain that his bluff, on which he had staked everything, had failed: the Coalition air strikes had been overwhelming, yet they had not caused anything like the huge loss of life he had expected. There had been no worldwide revulsion, no mass demonstrations in the streets of American cities.
  He faced utter defeat. Earlier, during the efforts to reach a peaceful conclusion to the crisis, Saddam had refused to compromise because he believed his generals would think he was weak, and perhaps overthrow him. Now the army was no longer a potential threat to him: it was his only defence, his sole protection. With the generals reporting a military collapse all along the line, it would be safer to surrender Kuwait than to see the army destroyed all together.
[和訳 4] 40 時間に渡り絶え間なく前進を続け、米軍はイラク軍の反撃を実質的に言って粉砕したのでした。この時点において、サダム・フセインは極めて弱い立場に追い込まれていました。あの空からの攻撃が始まった、すなわち約一か月前の一瞬から彼の主張がハッタリに過ぎなかったことはバレていました。彼はこのハッタリに自らの地位を賭けていたのです。連合側の攻撃は圧倒的な力を見せつけました。しかしこの攻撃は Saddam が危惧したであろう程には巨大な数の人命を奪わなかったのでした。その結果、世界中から米軍の残虐さに不満を示す動きが拡大しなかった上、米国内大都市の大通りに大人数のデモ隊が現れることもなかったのでいした。
  彼(Saddam)は自らの完敗に直面していました。しばらく以前(クウェート侵攻を終えた時点)のことですが、時の危機状態を脱する為の平和的方策を探る中で、彼は自分の部下である将軍たちが自分を弱気な男だと批判し、その地位から引きずり落としかねないとして、欧米側に妥協することを拒んでいます。今では、その軍隊が自分にとっての脅威ではありません。精々、自分の一人の護衛隊、保護役でしかありません。部下の将軍たちは次々に自軍の壊滅を報告してきています。こうなるとクウェートを返還し降伏することが、軍隊の全滅まで戦い続けるよりも自身にとって安全でした。

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5. Study Notes の無償公開

A-5 サイズ用紙の両面に印刷し左をステープラーで束ねることを前提に調製しています。私が読解時に作成したノートです。ご自由にご利用ください。
今回は原書 Pages 200 - 247 が読書の対象です。ここに公開するファイルはWord形式とPDF形式の2つです。双方は同じ内容です。