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35回目 V.S.Naipaul "Beyond Belief" を読む Part 4。第3部 Pakistan です。マララ・ユスフザイ (Malala Yousafzai) さんの闘いの現場を思わせます

1.教育の否定、コーランに従うことを是として子供を学校よりもモスクにと主張する人々。

自分たちの土地・土よりもコーランを書き残したアラブへの帰依のためアラブから取り寄せた「土 (sands of Arabia)」に額を着けて日に5度の祈りを捧げる人たち。彼らは、自分たちが住まう土地、そこに残された祖先の成果を引き継ぐ意志までも放棄してしまった人たちです。そんな人たちの街、ラホールをナイポールは次のように描きます。(1995 年の様子。ラホール Lahore は Pakistan 全4州の中で経済活動のスケールが最大の Punjab 州の都です)

[原文1] The British administrative buildings live on. The institutions they were meant to house are still more or less the institutions the country depends on. On the Mall, the central thoroughfare of Lahore, these big buildings stand, a little artificially, one after the other, each in its splendid grounds, as though the British here, out of their experience elsewhere on the subcontinent, knew from the beginning what they had to set down in central Lahore: the civil service academy, the state guest house, the college for the sons of local chieftains, the governor's house, the British club, the public gardens, the courts, the post office, the museum.
[和訳1] 英国が支配した当時のお役所の建物が今も生きながらえています。英国が支配するための様々な機関を収容すべく建設された幾つもの建物が、殆ど当時と変わらない役目を担う機関を今も収容していて、今の政府に頼りにされているのです。ラホール最大の繁華街区域にこれら建物は散在しています。それら建物、いずれもが少しばかりは恰好をつけた外観を持っていると同時に頑丈で見事な土台の上に建てられています。その頑丈さたるや、この亜大陸のあちらこちらで、自分たち自身で得た経験を基にして、ラホールの中枢を担う建物がどうあるべきかを、英国人は建設当初から予測していたと言わんばかりです。これら建物に収容されているのは役人養成学校、政府招待客用の迎賓館、地方の首長たちの子息を迎え入れる大学、政府の首長官邸、英国人クラブ、幾つかの公園、幾つかの裁判所、中央郵便局、美術博物館でした。


2.宗教が人の心を支配するのと、マルキシズムが嘗て人々を均質の一人ひとりとして扱おうとしたのが同じだとナイポールは叫び、嘆き、世界中に警告します。

インドから分離して建国されたパキスタン。ー西部にあって、政治の世界の変化と名実ともに関係なく、羊などの群れを引き連れ移動しながら暮らす人々( Tribesmen と 呼ばれる)が暮らす地域が Baluchistan 州。この地域はここから Afghanistan に拡がるほぼ砂漠の土地です。ここに Outsiders と呼ばれる英国の大学生街で育った熱心な Marxists が「人々の平等・封建的社会制度からの脱却」を目指して活動していました。国家の統一を目指して支配力を固めようとするパキスタン政府(ブット大統領がその代表)に対してゲリラ戦を展開していました。ブット政権側が勝利を収めた 1977 年までの約 10 年間に渡ってここでゲリラ部隊を組織し政権側と戦った裕福な家系(父はインド人の英国軍人)のイギリス育ちの男性(今は50才ロンドン在住)の回想談を(1995-6 年?に)ロンドンで聞き出します。

[原文2] The experiences and the emotions were there, but they had not come out in the earlier account. It was as though, in this story of revolution, he has wished to strip people down to their Marxist essentials. (In some such way the Islamic zealot wanted converted people to be the faith alone, without distorting history and traditions.)
[和訳2] その地に居たからこその経験も燃あがる感情も記憶にあったのです。しかし、彼はまだ聞かせてくれてはいません。革命闘争のお話を聞かせてくれたのですが、彼は人々をマルクス主義者としての側面からのみ描き出し、それ以外の側面を人々から剥ぎ取ってしまい恰も無かったかのようにしたかったのです。(熱心なイスラム教徒たちはおしなべて、イスラム教への改宗者たちを前にして、神への忠誠で頭が一杯になるように仕向けて、過去から引き連れて来ている歴史や伝統を頭から消し去らせようとするのに似ています。)
[原文3] He had seen the tribesmen not as men but as tribesmen, units, and the clan chief as a leader rather than as a man with affections and human attributes. … …
All of this he had left out as inessential, with the faces and costumes of the tribespeople, and the tents, and the camels, and the baggage, and the landscape. … … (on page 307)
'The ideology was supplied by the 1968 movement. But the urge was a local urge, to do something for my country, especially after the loss of Bangladesh. Today the people who think they have the answer are the fundamentalists.' [said Shahbaz to me.] … (on page 308)
[和訳3] 彼はこの土地に暮らしてきた人々を人と見做さないであくまでも現地人たちと呼びました。あるいは現地人集団と呼びました。そして集団の長を族長と呼んだのです。そうすることでこれらの人々を、情を持って交流する相手と捉えること、人間的な立場に置くことを避けたのでした。
  この種の要素の一切合切を重要度のないものとして無視したのです。現地人たち、族長たち一人ひとりの顔や着ているものの違いも同時に無視しました。ラクダや荷物の包や周囲の景色と同様の扱いをしたのでした。
  「イデオロジーは 1968 年に(世界中に巻き)起こった動きから取り入れました。しかし求められる仕事はこの地で必要な行動、すなわち自分の国の為の行動をとるのです。バングラデシュを失った後にあってとりわけそのような行動が意識されました。ところが今日に至っては、どんな行動が必要なのかを決めるのは原理主義者に取って代わられてしまったのです。」【とシャバズは私に語りました。】

Lines 6-12, lines 21-24 on page 307 & lines 20-23
on page 308, 'Beyond Belief' Picador 2010 Edition

3.ナイポールの叫びは今の日本人の社会に巣食う「民主主義喪失の危機」への警告に聞こえます。

議論を詭弁で切り抜ける人たちを「Fundamentalists 意見の異なる人々とは議論できない人たち」と読み替えると、ナイポールの叫びは、今や「民主主義喪失の危機」に踏み入った日本人の社会に向けた警告に聞こえます。

[原文4] The fundamentalists wanted people to be transparent, pure, to be empty vessels for the faith. It was an impossibility: human beings could never be blanks in that way. But various fundamentalist groups offered themselves as the pattern of goodness and purity. They offered themselves as true believers. They said they followed the ancient rules (especially the rules about women); all they asked of people was to be like them and, since there was no absolute agreement about the rules, to follow the rules they followed.
[和訳4] 彼ら原理主義者たちは人々に対してそれぞれが透明であれ、純粋であれ、信仰・忠誠心を収納するための空容器になれと呼びかけました。それは不可能というものでした。人間とはそのような空白な生き物にはなりえないのです。それなのにあちらの原理主義者グループ、こちらの原理主義者グループという具合にいくつものグループがこれこそがその模範ですと自分自身を善きもの・純粋とはこのようなものだと人々に向けて例示したのです。これぞ真の信仰者の在り方だという訳です。彼ら原理主義者たちは昔からの決まり(中でも特に強調したのは女性たちを縛る決まりでした。)を引き継ぐ者たちであると主張します。そうして彼らが人々に求めたことは全員が彼らの様であれというものでした。どこを探しても誰にも分かる決まりは見つかりません。それを知ってか知らずか、彼らは自分たちのやり方をそのまま模倣するよう人々に求めたのでした。

Lines 17-24 on page 309, 'Beyond Belief' Picador 2010 Edition


4.宗教は様々です。影響は信者以外にも及びます。

社会の構成員である人々に害を及ぼす宗教を阻むには、様々な相手に同じ法律を一律に適用するだけでなく、付和雷同を拒否し一人ひとりが自らの知的な判断力で対応できるように全員が賢くなる外に良い対策はないかと思えます。

4-1) パキスタンのイスラム教徒はクリスチャンとはこう違うのだとナイポールはその恐ろしさに声を震わせます。

[原文5] Islam is not like Christianity, Iqbal says. It is not a religion of private conscience and private practice. Islam comes with certain 'legal concepts'. These concepts have 'civic significance' and create a certain kind of social order. The 'religious ideal' cannot be separated from the social order. 'Therefore, the construction of a polity on national lines, if it means a displacement of the Islamic principle of solidarity, is simply unthinkable to a Muslim.' In 1930 a national polity meant an all-Indian one.
[和訳5] 【イクバルは 1930 年に発表し詩によりイスラムの法が支配する国をインドに実現しようと呼びかけた人物。1947 年のパキスタン分離に繋がった。】
  イスラム教はキリスト教とは異なりますとイクバルは明言しています。イスラム教は人々の一人ひとりが自分の心をどうかするべきか、自分の行動をどうするべきかを問題にしないのです。イスラム教は一定の法制度として存在します。この制度は「社会を構成する人々のあり方」を規定します。そして社会に一定の規律を創出します。「したがって、社会の制度の構築に係る国家の方針が、万が一イスラム教の社会建設の教義に異を唱えるとなると、話は簡単です。イスラム教徒には受容できません。」 イクバルがこう唱えたのは 1930 年のことでしたが、その時点では(パキスタンは存在せず)以前のインドの全国土における法制度を念頭においていたのですが。

Lines 20-27 on page 267, 'Beyond Belief' Picador 2010 Edition

4-2) 獄中で熱心なイスラム教徒に変身し、刑を短縮された男


封建制度下の大家族の規律に生きた一族が一組の結婚を原因に殺し合いの応酬に陥ります。無期刑の判決を受けたのに、刑務所で同室になったイスラム教徒に訓育を受け改宗の結果、模範囚に変身、数年で出所、子供も孫もできて暮らす男の今をナイポールは取材します。敬虔なイスラム教徒が集まり暮らす特別なセツルメント的住宅区域での暮らしです。

[原文6] The Jamaat headquarters and commune was in a twenty-eight-acre site at Mansoura, on the edge of Lahore, on the Multan road. Among the people in the commune were some penitents, expiating sins of varying magnitude.
[和訳6] JAMAAT の本部とそのコミューンはマンスーラの町中、28 エーカーの広さの土地に造られています。ラホールの市街の端に位置します。ムルタン大通り沿いの地です。このコミューンには特別に信仰心にあつい人たちが集まり、犯罪・受刑歴を持つ悔悛者たちも少なからず住んでいました。犯した罪の重要度はピンキリですが神の許しを願い暮らしていました。

Lines 27-30 on page 310, 'Beyond Belief' Picador 2010 Edition

[原文7] All the ideas -- of freedom and the loss of freedom, religion and the state -- were linked. It was where Iqbal's convert's dream of the pure Muslim polity had led, back and back to the death of the state in the region where the man had come from, and to Mansoura here.
[和訳7] 様々な構想の全体ーー自由と自由の喪失、宗教と国家に関わる様々な構想ーーこれらは相互に絡み合い、一体のものになっています。それこそがイクバルが考えた純粋なイスラム教徒たちが夢に見た基本的規則が人々を導き入れることになった世界です。(しかし)その世界に行くとは、国の消滅(国の喪失)に向かって後退することなのです。そのような世界は人類が(その発生以来、長い年月をかけて命懸けで)抜け出したところの、(忌まわしい原始の)世界であり、同時に私が今訪れているマンソーラのこの町(こんな無残な世界)なのです。【( )内は私の説明的コメント】

Lines 8-11 on page 322, 'Beyond Belief' Picador 2010 Edition


5.パンジャブの一族、ユスフザイ(Yusufzai)という名門の姓を引き継ぐ 1918 年生まれの父と1948? 年生まれの長男を中心とする勤勉な家族。

第二次大戦中は英国軍のインド兵(セポイ兵)としてエジプト・リビアに勤務、次にはパキスタン兵としてバングラデシュの分離活動の鎮圧に予備兵として参戦した父。命を懸けて稼いだ国からの給与でイギリス系の学校での教育を受けた長男はイギリス統治時代からのものを引き継いだ軍人養成大学(寄宿制3年間)を終了。父に倣い軍人を目指すも視力の検査で不採用。軍務の知識が幸いしてアフガン戦争の取材に抜群の力を発揮、ヨーロッパの新聞・メディアからの収入でお金持ちになったのです。ナイポールはこのパキスタンの章において、この二人の暮しには常に「遠い外国の人々との交流があった」ことを特に強調しています。

[原文8] The Afghanistan war, and the long factional fight afterwards, was his great opportunity. As a Pathan and a man of the frontier, he knew the issues and the personalities. He was in demand; he did much work for foreign organizations. He thought he had become one of the best-paid journalists in Pakistan.
Though there was nothing in Rahimullah's eyes to match the glory of the army officer, he could feel that he had redeemed himself. Now, on land near his ancestral village--the village that twenty years or so before rejected his father at the local elections--Rahimullah and his younger brother had built a big and stylish house for their big joint family.
[和訳8] アフガン戦争とその後に長らく続いた部族抗争がこの男にとっては絶好の機会になりました。(戦場の人々と同じ)パシュトン語を話す人間であり(軍人教育も終了している上に)この戦場・紛争地帯に育った人間として、彼には(紛争当事者たちが抱える)問題と心情を理解できたのです。そんな彼の働きへの需要は大きかったのです。仕事の大部分が外国の組織・会社相手のものになりました。パキスタンで一番稼ぎの多いジャーナリストにランクインしたなと彼自身が感じたのでした。
  軍隊の将官になっていて戦場で勝利を収めたとしたら感じたであろう満足感とは比べられないなとは思ったものの、彼、ラーイムラーは以前の汚名を十分に晴らせたという気になったのでした。自分の祖先が暮らした土地、その昔、およそ20年前には選挙に立候補した父を落選させた土地ですが、その土地の近くにラーイムラーは弟と連名で巨大で外観にも工夫を凝らした大家族全体のための屋敷を建設したのでした。

Lines 17-27 on page 335, 'Beyond Belief' Picador 2010 Edition


6.Study Notes の 無償公開

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