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45回目 ‘Midnight's Children 真夜中の子供たち’ by Salman Rushdie を読む(第1回)。私は、リアリズム小説の意味を確と理解したいのです。

目の前に展開している事象を言葉で捉える。あるいは自分の頭に構築した事象を言葉にして伝える。ここにある言葉と事象との差にリアリスト小説の意味・面白さを理解するカギがあるようなのですが違うのかな?

今回からは、長期にわたるのを覚悟で Salman Rushdie "Midnight's Children" a Vintage Classics paperback (40th Anniversary Edition) を読みます。

余談ながら、語り手の祖父が仕事を得て赴くことになったアグラ大学のある位置を確認しようとして開いたウタ・パラディシュ(州)の地図のサイトにあった観光案内の英語文章の簡潔・明解・きびきびした様には、インド・パキスタンの人々の英語が往々にしてイギリス人よりも素晴らしいという折に触れて耳にした評価を再認識させられました。

1. Page 8 にある一節に私の心は引かれます。

どうしてなのか今の私には分からないのですが、昔に頑張って読んだスタインベックの短編小説 "The Pearl" の肌触り、人物がその「外観」と「人柄・人格」が一体となってそれを読む私の頭に浮かび上がった経験が蘇ります。

[原文 1-1] Tai, bringing an urgent summons to Doctor Aziz, is about to set history in motion … while Aadam, looking down into the water, recalls what Tai taught him years ago: 'The ice is always waiting, Aadam baba, just under the water's skin.' Aadam's eyes are clear blue, the astonishing blue of mountain sky, which has a habit of dripping into the pupils of Kashmiri men; they have not forgotten how to look. They see -- there! like the skeleton of a ghost, just beneath the surface of Lake Dal! -- the delicate tracery, the intricate crisscross of colourless lines, the cold waiting veins of the future.

《 この引用部分にあっては、they have not forgotten how to look. と They see の they が Aadam's eyes を指しています。これを意識するとその途端この一節の重要さが読み手の心に緊張と期待感を誘います。》

[和訳 1-1]アジーズ先生への来診要請を携えて近づいて来るタイさんですが、彼のこの行動は歴史を方向付けることになるのでした。一方のアーダム(アジーズ先生のファースト・ネーム)は足下の水面を見つめながら、何年も以前のこと、このタイさんから教わったあることを思い出していました。「アーダム君よ、この表面の氷はいつも、その直ぐ上、表面水の薄い膜の下で待機しているのですよ。」と教えられたのでした。アーダムの両目は透き通るような青色です。山の高嶺で出会えるあの見事な青色でした。この青色は降り落ちてきてカシミールの男たちの瞳に留まる青色です。アーダムの両目は物事の見方をしっかりと記憶しています。彼の両目は霊の抜け殻のような水面を見てそれを読むのです。ダル湖の表面の直ぐ下に待機している部分です。それは、繊細な線刻画、複雑に絡み合う色の無い線、これからやってくる日々をジッと待機している(今はまだ)冷たい毛細管の網目です。

Lines between line 20 and line 30 on Page 8,
"Midnight's Children", a Vintage Classics paperback

[原文 1-2]<原文 1-1 に切れ目なく続く文章です> His German years, which have blurred so much else, haven't deprived him of the gift of seeing. Tai's gift. He looks up, sees the approaching V of Tai's boat, waves a greeting. Tai's arm rises -- but this is a command. 'Wait!' My grandfather waits; and during this hiatus, as he experiences the last peace of his life, a muddy, ominous sort of peace, I had better get round to describing him.
[和訳 1-2]彼がドイツで過ごした年月は、ドイツ以外で得た知識の多くをあいまいな記憶に変えてしまったのですが、ものを見てとる力まで奪い取りはしなかったのです。この力は元来タイさんのものであったのです。アーダムは視線を上げ、それをタイさんが漕ぐ小舟のV字型の舳先に移します。そして手を振り挨拶をしました。タイさんの腕が持ち上げられました。しかしそれは挨拶でなく依頼事を伝えるものでした。「そこで待っていてくれ。」私の祖父(アーダムのこと)はその場でジッと待つことにしました。この時祖父はこの後の人生にとって最後となる平和、ある意味泥にまみれた不吉な平和を味わっていたのです。このしばしの間に、私は横道に逸れて読者のために祖父の詳細をお話することにします。

Lines between line 30 on Page 8 and line 2 on Page 9,
"Midnight's Children", a Vintage Classics paperback


2. これが翻訳小説の限界という一例。

次に取り上げるシーンではドイツ留学で医師になった 25 才の青年が、ここが治癒すれば次にはあそこがと次々にトラブルを訴える若い女性の診療を続けるのですが、当該患者は問題の身体部分しかイスラムの戒律故に露出ができません。そんな往診を 2 年 3 年と続けてきたのがアーダム医師です。患者がナシーム。ベッドに横たわる患者の身体は頭も含めて、診察の間は純白の綿布で覆われています。この綿布には20センチ程の円形の孔がありそれを患部に移動して診察するのです。

[原文 2] Excitedly, he envisaged his headless Naseem tingling beneath the scrutiny of his eyes, his thermometer, his stethoscope, his fingers, and trying to build a picture in her mind of him. She was at a disadvantage, of course, having seen nothing but his hands … Aadam began to hope with an illicit desperation for Naseem Ghani to develop a migraine or graze her unseen chin, so they could look each other in the face.
[私の理解 2] 彼自身の目、体温計、聴診器、指による検査が進む中で、ドキドキし、触れられる度に身をよじらせながらも、心の内では彼の姿形を想像し続けているのだろうなと、アーダムはナシームのことを推定していたのですが、この時のアーダムが頭に浮かべるナシームの姿に彼女の顔は存在しません。(それでも)ナシームの方はもっと不利な立場にあったのです。というのは、勿論のことながら彼女は(顔どころか)両手以外は彼の身体のどの部分をも見たことがなかったのです。・・・アーダムは不謹慎にもナシーム・ガーニが偏頭痛を起こすとか、まだ自分が目にしたことのない顎(あご)に擦り傷を負うとかすればよいのにと思い始めたのでした。そうなればお互いが相手の顔を見ることになるもので。

Lines between line 7 and line 14 on Page 28,
"Midnight's Children", a Vintage Classics paperback

[上記した私の理解の根拠]《この文章は、パーダ purdah の価値観に縛られてこれまでの 2・3 年もの間、彼女が彼の顔から眼をそらせてきたこと、服を着たアーダムの身体しか目にしていないことを読者に向けて強調するものである。英文の読者は、この辺りの文章が性の恥じらいを言っているのではなく、この種の価値観に縛られた人々の実態ないし不自由さをリアリズムで描いていると捉えるだろうと私は思うのです。ちなみに、ここで「不利 disadvantage 」は女性に制限を加えるパーダ故に女性が不利である、虐げられている現状を指しています。》

[岩波文庫「真夜中の子供たち」にある寺門訳の対応部分] 彼は興奮を覚えながら首の無いナシームの姿を思い描いてみた。彼の目と体温計と聴診器と指によって探りまわされてうんざりしながらも、心のなかで「彼」のことを想像してみようとしているのではなかろうか。彼女はもちろん彼の手しか見ていないわけで、不利な立場にある・・・とうとうアーダムは、もうどうなったってかまわないから、互いの顔が見られるように、ナシーム・ガーニが偏頭痛を起こすとか、あるいは自分には見えない顎をすりむくとかしてくれると有難い、と思うようになった。そのような感情を持つことが医者の道に悖(もと)るものであることは承知していたが、それを抑えようとはしなかった。抑えようにもあまり手立てはなかった。感情の方が勝手にひとり歩きを始めたのだ。

岩波文庫「真夜中の子供たち」52 頁末行から 53 頁第 8 行まで


3. 「リアリズム小説」の理解には Wikipedia にある文学批評「ミメーシス(アウエルバッハ)」が参考になるようです。

以下にその記事の冒頭を転載します。あまり遠くない将来に、この本を読むことにしようと、今現在は、思っています。

ミメーシス』(ドイツ語: Mimesis. Dargestellte Wirklichkeit in der abendländischen Literatur)は、エーリヒ・アウエルバッハによって1946年に発表された書籍。概要
文芸的描写を模倣(ミメーシス)による現実の解釈と定義し、ヨーロッパ文芸における描写の移り変わりを研究した。題材とした文献の範囲は3000年近くにわたり、文学史のみならずヨーロッパの人間観の変化を描いた内容となっている。アウエルバッハがこの主題に関心をもったきっかけとして、プラトンの『国家』におけるミメーシスの議論、およびダンテによる喜劇についての主張をあげている。
本書の大半は、著者がナチスの迫害によってイスタンブールへ逃れ、トルコ国立大学(のちイスタンブール大学)の教授だった時代に執筆されている。第二次世界大戦中に書かれたため、この著作が、ヨーロッパの歴史に愛情を持つ人々を再び結ぶよすがとなることを願う一文もある。ドイツ語版は、1946年にスイスのベルンで出版され、1949年にスペイン語訳が出版された際、セルバンテスについての章(第14章)が追加された。1953年に英訳が完成し、アウエルバッハの名声は確立することとなった。

Wikipedia-J: ミメーシスの解説よりその一部を引用


4. 寺門泰彦氏の訳になる岩波文庫「真夜中の子供たち」には原文を丁寧に読んで日本語にされているなと一瞬感心させられました。しかし丁寧なのは「日本語文のつじつま合わせ」なのかもしれません。

上記は岩波書店のサイトにある試し読みページを読んだだけの私の感想です。自分で自分の為に読んでいる分には、この程度の理解ミスがあると、読み手の頭には「あの辺りは不確かなところがあったな」との記憶も併せて残存するのです。その結果、読み進めて行くうちに確かめに戻ることもできます。翻訳者にもそれはできるのです。しかし和訳の小説を読んでいる人にはこれができないのです。東大卒の翻訳者の手になる翻訳小説だからと期待しても解消不可能な障壁です。

[原文 4-1]… and guided only by the memory of a large white bedsheet with a roughly circular hole some seven inches in diameter cut into the centre, clutching at the dream of that holey, mutilated square of linen, which is my talisman, my open-sesame, I must commence the business of remaking my life from the point at which it really began, some thirty-two years before anything as obvious, as present, as my clock-ridden, crime-stained birth.
[寺門訳 4-1]真ん中に直径七インチほどの丸い穴のあいた、大きな白いベッドシーツの記憶だけに導かれ、私の護符であり呪文である、あの無残にも穴を穿(うが)たれた四角いリンネルの夢を手がかりにして、私はそれが実際に始まった時点から自分の生涯を再現する仕事を開始しなければならない。その時点とは、時計に支配され、犯罪に汚された私の誕生という明白で確実な出来事よりも三十二年も前のことだ。<岩波書店のサイト、この本の試し読みとして公開されている部分より>
[私の理解 4-1]32年ばかり以前に始まった私の半生を、時刻に取りつかれていた上に犯罪にも汚されていた私の誕生という時点に始まる、誕生と同様に今日現在にあってその詳細が明々白々な何もかもを、ここに再現しよう、書き上げようとしています。この作業を開始するにあっては、真ん中に直径7インチばかりのほぼ円形の孔ができたベッドシーツに纏わる記憶のみに頼ろうと思います。すなわち、私は孔が開き無残な姿になってしまった四角形の綿布に纏わる夢に喰らいつくことでこの仕事を開始するのです。この夢は私の手にある通行許可証であり、扉を開かせる呪文なのです。

Lines 10-18 on Page 4, "Midnight's Children", a Vintage Classics paperback

この部分の理解に関する寺門氏と私の違いの重要性は、この小説の第2章まで読むと良く分かることになります。第2章までの出来事に意義を付与する本筋、その裏にある書き手の主張が何であるかをこの部分がここの段階で規定・特定して読者に示しているのです。例えば「リンネルの夢」と「・・・に纏(まつ)わる夢」では違うのです。第2章に出てくる「語り手が幼年の頃のある日、祖父・祖母に叱られた後、何度か悪夢に苛まれた事実」を指しているのですが、「リンネルの夢」では、読者が第2章を読んだ時にここの部分の話を思い浮かべることにはならないのです。


[原文 4-2] Now, however, time (having no further use for me) is running out, I will soon be thirty-one years old. Perhaps. If my crumbling, over-used body permits. But I have no hope of saving my life, nor can I count on having even a thousand nights and a night. I must work fast, faster than Scherazade, if I am to end up meaning -- yes, meaning -- something. I admit it: above all things, I fear absurdity.
[寺門訳] しかし今、時間は(私にとって用ずみとなり)尽き果てようとしている。私はまもなく三十一歳になる。いや、たぶんなる。つまり、私の崩れかけて、がたのきた肉体が許すなら、ということだ。しかし私には自分の命を救う望みはないし、千夜一夜の猶予を手に入れることも当てにできない。私は急いで、シェヘラザードよりも急いで、仕事をしなければならない。ともかくも何かまとまりのあることを話そうとするならだ。そう、その通り。何よりも私は支離滅裂になることを恐れる。
[私の理解 4-2] しかし、今や時間が無くなりつつあります(時間が私について、もはやこれ以降の使い道がなくなると考えたのです)。私はまもなく31才です。厳密には可能性です。すなわち崩れ始めている、使い過ぎにまで使い尽くされた私の身体が耐えられるか否か次第です。この命を救いあげる手段を私は持っていません。(シェエラザードのごとく)千夜一夜の猶予が与えられることを期待する訳にもいきません。したがって速く作業を進めるしかないのです。シェエラザードの速さ以上の速さが必要です。それは私が自分の一生を意味のあるものとして終える為にはという意味なのです。そうです。意味のある一生にしたいのです。何らかの意味を与えたいのです。本心を明かしますが、何にもまして私は馬鹿(不条理なままの人間)で終わりたくないのです。

Lines between line 24 on Page 3 and line 4 on Page 4,
"Midnight's Children", a Vintage Classics paperback

[4-2]として引用した部分はどう考えてもこの小説の語り手がこの小説、物語を書き上げる真の目的を読者に声を大にして伝えている部分です。作者のラシュディーにとってそれほど大切な一節ですら、この程度に軽率に翻訳され、その翻訳文が長年、放置されている(日本における)翻訳小説の世界に苛立たしさを禁じえません。


5. Study Notes の無償公開

以下に "Midnight's Children" の第一巻、第1章と第2章、3‐42 ページに対応する部分を公開します。(今回に限らず私のNote記事に公開した全ての Study Notes について、私は自らの著作権の存在を主張するものではありません。ご自由にご利用ください。念のため。)

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