目の前に展開している事象を言葉で捉える。あるいは自分の頭に構築した事象を言葉にして伝える。ここにある言葉と事象との差にリアリスト小説の意味・面白さを理解するカギがあるようなのですが違うのかな?
今回からは、長期にわたるのを覚悟で Salman Rushdie "Midnight's Children" a Vintage Classics paperback (40th Anniversary Edition) を読みます。
余談ながら、語り手の祖父が仕事を得て赴くことになったアグラ大学のある位置を確認しようとして開いたウタ・パラディシュ(州)の地図のサイトにあった観光案内の英語文章の簡潔・明解・きびきびした様には、インド・パキスタンの人々の英語が往々にしてイギリス人よりも素晴らしいという折に触れて耳にした評価を再認識させられました。
1. Page 8 にある一節に私の心は引かれます。
どうしてなのか今の私には分からないのですが、昔に頑張って読んだスタインベックの短編小説 "The Pearl" の肌触り、人物がその「外観」と「人柄・人格」が一体となってそれを読む私の頭に浮かび上がった経験が蘇ります。
2. これが翻訳小説の限界という一例。
次に取り上げるシーンではドイツ留学で医師になった 25 才の青年が、ここが治癒すれば次にはあそこがと次々にトラブルを訴える若い女性の診療を続けるのですが、当該患者は問題の身体部分しかイスラムの戒律故に露出ができません。そんな往診を 2 年 3 年と続けてきたのがアーダム医師です。患者がナシーム。ベッドに横たわる患者の身体は頭も含めて、診察の間は純白の綿布で覆われています。この綿布には20センチ程の円形の孔がありそれを患部に移動して診察するのです。
[上記した私の理解の根拠]《この文章は、パーダ purdah の価値観に縛られてこれまでの 2・3 年もの間、彼女が彼の顔から眼をそらせてきたこと、服を着たアーダムの身体しか目にしていないことを読者に向けて強調するものである。英文の読者は、この辺りの文章が性の恥じらいを言っているのではなく、この種の価値観に縛られた人々の実態ないし不自由さをリアリズムで描いていると捉えるだろうと私は思うのです。ちなみに、ここで「不利 disadvantage 」は女性に制限を加えるパーダ故に女性が不利である、虐げられている現状を指しています。》
3. 「リアリズム小説」の理解には Wikipedia にある文学批評「ミメーシス(アウエルバッハ)」が参考になるようです。
以下にその記事の冒頭を転載します。あまり遠くない将来に、この本を読むことにしようと、今現在は、思っています。
4. 寺門泰彦氏の訳になる岩波文庫「真夜中の子供たち」には原文を丁寧に読んで日本語にされているなと一瞬感心させられました。しかし丁寧なのは「日本語文のつじつま合わせ」なのかもしれません。
上記は岩波書店のサイトにある試し読みページを読んだだけの私の感想です。自分で自分の為に読んでいる分には、この程度の理解ミスがあると、読み手の頭には「あの辺りは不確かなところがあったな」との記憶も併せて残存するのです。その結果、読み進めて行くうちに確かめに戻ることもできます。翻訳者にもそれはできるのです。しかし和訳の小説を読んでいる人にはこれができないのです。東大卒の翻訳者の手になる翻訳小説だからと期待しても解消不可能な障壁です。
この部分の理解に関する寺門氏と私の違いの重要性は、この小説の第2章まで読むと良く分かることになります。第2章までの出来事に意義を付与する本筋、その裏にある書き手の主張が何であるかをこの部分がここの段階で規定・特定して読者に示しているのです。例えば「リンネルの夢」と「・・・に纏(まつ)わる夢」では違うのです。第2章に出てくる「語り手が幼年の頃のある日、祖父・祖母に叱られた後、何度か悪夢に苛まれた事実」を指しているのですが、「リンネルの夢」では、読者が第2章を読んだ時にここの部分の話を思い浮かべることにはならないのです。
[4-2]として引用した部分はどう考えてもこの小説の語り手がこの小説、物語を書き上げる真の目的を読者に声を大にして伝えている部分です。作者のラシュディーにとってそれほど大切な一節ですら、この程度に軽率に翻訳され、その翻訳文が長年、放置されている(日本における)翻訳小説の世界に苛立たしさを禁じえません。
5. Study Notes の無償公開
以下に "Midnight's Children" の第一巻、第1章と第2章、3‐42 ページに対応する部分を公開します。(今回に限らず私のNote記事に公開した全ての Study Notes について、私は自らの著作権の存在を主張するものではありません。ご自由にご利用ください。念のため。)