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34回目 V.S.Naipaul, 'Beyond Belief' を読む。(Part 3) 第2部 Iran を読み切る

「紀行文」と一口で分類・表現されるこの本ですが、これを書く為にナイポールが出かけた東方4か国への旅は、出先で遭遇した人々にインタビューをするものではありません。ツテ(おそらく新聞社や大使館やの)を頼り、あるいはそれまでに公開・発表された論文からその人の概念を頭に入れ、連絡を取りして、スケジュールを固めてからの出張です。同じ人に2度も3度もインタビューすることもあったようです。スカルノやスハルトやコメイニやといった政府トップの人物との面会ではありませんが、トップに近い一群の人々の末端に位置するか位置していたような人で、トップとの間にある程度の距離がある故に個人としての心情を語るとか垣間見せることができる立場の人々をナイポールはインタビューして廻ります。その結果、この紀行文はその土地その時代の社会とそこに生きる人々の気持ち・悩み・喜びを見事に描写し読者に伝えています。

1)1979 年のイラン革命とアメリカ大使館人質事件の時代のテヘラン

1979 年のイランの革命直後の頃です。イランへの最初の訪問を終えた6ケ月後に、すなわちアメリカ大使館人質事件が起こった直後に、わざわざテヘランに再度の訪問をして、あの新聞社 "Tehran Times" の人たちとの面談を画策します。

[原文] Six months later, when I went back to Tehran, it was winter, bitter weather, and that office was empty. A big bound folder, with file copies of the paper, had been cracked open and the file copies had fanned out on one of the desks. Mr Jaffrey's typewriter was there, empty, harmless.
The American Embassy had been seized some weeks before by one Iranian group and the staff held hostage. This had killed business and economic life at one blow. The eight pages of the "Tehran Times" had shrunk to four, a single folded sheet.

lines between L-33 on page 153 and L-3 on page 154,
"Beyond Belief", Picador 2010 Edition

2)購入した和訳本にこんな訳文があれば、返品したくなりますよね。

[斎藤兆史訳] だが、彼は生き延びていた。『テヘラン・タイムズ』は失ったけれども、別の英字新聞『イラン・ニュース』の編集に携わっていた。その事務所は、テヘラン中央部のヴァナック街の小さな建物の中にあった。パルウィーズ氏の昔の『テヘラン・タイムズ』の事務所より立派である。『イラン・ニュース』は、あらゆる面において新しかった。受付の所に入った印象から言えば、長い隔絶と経済的困難、そしてハイヤットに見られるような革命を窺わせる見かけ上の薄汚さにもかかわらず、イラン人はあるレベルにおいては、シャーの時代ーー今となっては輝かしい時代ーーから引き継いだ様式どおりに事を運ぶことができるらしい。

「イスラム再訪」岩波書店 216 頁、第 3-8 行

[原文] But he had survived. He had lost the "Tehran Times", but he was working on another English-language paper, "Iran News". The offices were in a small building in Vanak Square in central Tehran. They were finer than the offices of Mr Parvez's old "Tehran Times".
"Iran News" was up to date in every way. To enter the reception area was to feel that, in spite of their long isolation, and financial stringency, and in spite of the pretentious revolutionary shabbiness of places like the Hyatt, Iranians at a certain level could still do things with a style that was like a carryover from the -- now glittering -- time of the Shah.
[和訳] (心配だったのですが、15 年後の今にあって)彼は業界で生き延びていました。テヘラン・タイムズ社を手放したものの、別の英字新聞、「イラン・ニューズ」を発行しているのでした。幾つかの事務室でなるその仕事場はテヘラン市の中心部、ヴァナク広場に接する小さなビルの中にありました。何れの事務室も、パルヴィズ氏のかつての仕事場、テヘラン・タイムズ社の事務室よりは小さいものでした。
イラン・ニューズ社は全ての点で現代的な感覚に満ちていました。玄関に一歩踏み入るだけでそれは明らかでした。彼らが長らく疎外・圧力を受けていたこと、資力に余裕を失っている事を考えると称賛せずにおれません。ハイヤット・ホテルで目にしたような、(ワザとそれまでの社会への反抗心を表に見せる)ためにする革命支持者たちのだらしない振る舞いがあちらこちらに溢れる社会にあっても、この地・イランに気位の高い人々が工夫を凝らせば、シャーの時代の雰囲気 ―― 今思えば晴れやかさ ―― の残り香が漂う場所・事務所を作り得ることに驚かされたのでした。(訳す時の注意: pretentious は revolutionary でなく shabbiness に掛かる形容詞である。)

lines between L-31 on page 154 and L-2 on page 155,
"Beyond Belief", Picador 2010 Edition

3)イラン革命の中で覇権を握ったコメイニ師に直接面会する機会があった不動産王からその時のようすををナイポールは聴きだしています。

[原文] 'The reins of government went altogether out of the hands of government, out of control. It was anarchy and terror. The reason was Khomeini himself. About three months after the revolution I was taken by my ayatollah friend to meet Mr Khomeini. The ayatollah friend had explained to Khomeini that I was a developer and a technical man and could help with housing problems. I and the ayatollah friend and Khomeini were sitting together on the ground in Khomeini's house. The door opened. Some mullahs came in. Khomeini started talking with them. Later some more mullahs came in. And it went on and on until the room was full of mullahs, two hundred of them. And they all wanted money to take to their students and religious organisations in their own towns. Khomeini said he didn't have money to give to all of them. Then he said. "Go to your own towns. Find the first man who is rich or the first man who has a factory or a huge farm. And force him to pay you."'
This language from the head of the government shocked Ali. And this was when he realised that Khomeini was leading his people to chaos.
[和訳] 「政府の統制は全般としてその手から離れてしまっていました。統制をとれなくなっていたのです。無政府状態で恐怖が人々を支配していました。コメイニ師にその責任があったのです。革命が始まって3ケ月程経った頃、友人であった一人のイスラム指導者に連れられてコメイニ師に会いに行きました。私のこの友人は私が土地の開発業者で技術者でもあると紹介し、人々の住宅問題への対応で役にたてるかも知れないと伝えていました。私とこの友人とコメイニ師はコメイニ師の自宅の土間に座り込んでいました。入口が開いて何人かのムラ―(イスラム信者)が参席しました。コメイニ師はこのムラ―達と会話を始めました。やがてさらに大勢のムラ―がやって来て総勢 200 人位の集りになりました。ムラ―達はそれぞれが自分の地方のイスラム学生や、自らが所属する町のイスラム組織に持ち帰るお金が欲しいと主張していました。コメイニ師は皆さんに分配できるほどのお金なんかないのだと答えていたのですが、やがて「自分の所属地にお帰りなさい。そして町一番の金持ち、一番大きな工場の持ち主を見つけ出して、金を出すように強制しなさい。」と命じたのでした。
  アリ(不動産業者当人)は、この話を政府のトップにいる人間から聞いて酷いショックをうけたとも語りました。この経験は、アリをして、コメイニ師が先頭に立って人々をこんな混乱・困難に引き込んでいるのだと確信させたのです。

lines between L-34 on page 181 and L-12 on page 182,
"Beyond Belief", Picador 2010 Edition


4)マータ(殉教志願兵)の生き残り。そんな人の話の中にもナイポールは科学・物質の成り立ちへの断ち難い興味・好奇心の存在を見出します。

14 才の時にイスラム組織から進められ Martyr 兵士に志願し神の世界、天国へ行こうと決心した青年。ケガを抱えて生き残った青年 Abbas 27 才は、イラクとの戦争が無かったなら何をしていたかなと尋ねられて次のような話をします。
 (下段に示した私の訳は、チョッとの違いのようですが斎藤訳とは「逆」の意味になっています。Naipaul はイスラムの教育が科学的探究心を押し潰してしまう、科学面への探求心を持っている人を苦しめることを言っているのであって、「イスラム教に忠誠を尽くしていても科学的探求心が生き続ける」とは言っていない。)

[原文] Abbas said, 'I would have continued my studies. I loved pure physics. It is related to philosophy. The study of matter.'
And this was interesting to me because it showed how, even within the rigidities of a revealed faith, a feeling for the spiritual might prompt wonder; and science and the search for knowledge would have began.
[和訳] アバスは「自分の勉強を進めていたと思います。私は理論物理が好きだったのです。哲学のような要素もありますから。物質に関する学問です。」と答えてくれました。
  この答えに私ほ強い関心を持ちました。これはイスラム教(啓蒙宗教の一つ)の神へ忠誠という行為に伴う(思想・思考の)硬直の下にあっても、信仰者(信仰に深い人々・高位聖職者)をあがめる感覚に潜む一部分が、不可思議さに対する探求欲を呼び起こす様子・仕組みを開示していたからです。言い換えれば、科学や知識の探求・獲得というプロセスが信仰者の心の内にも起こり得ることを示していたからです。

Lines between lines 30-34 on page 206,
"Beyond Belief", Picador 2010 Edition

[斎藤訳] アッバースは言った。「私は勉強を続けたでしょうね。純粋物理学が好きでしたから。哲学にも通じますしね。ものの研究ですから」
  そしてこれは私にとって興味深いことであった。啓蒙的宗教の厳格な規範のなかにあっても、精神的なものに対する気持ちがこの世の不思議を追求する可能性を示唆しているからだ。そのようにして科学や真理の探究が始まったのであろう。

「イスラム再訪」岩波書店 290 頁、第 17 行から 291 頁、第 1 行


5)Study Notes の無償公開

"Beyond Belief" by V. S. Naipaul Div. II, Iran 原書 Pages 139-257 に対応するStudy Notes を以下にダウンロード・ファイルとして公開します。
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