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70回目"The Bum"(モームの短編集Cosmopolitans に収蔵)を読む。読むことが楽しくなる文章とそうでない文章を具体例で見比べてみます



1. 読むことそのものが喜びである モーム の文章

福田尚弘氏の note 記事(モームの入口②「コスモポリタンズ」)の心地良い紹介文章に誘われて、その原文を読むことにしました。W Somerset Maugham の短編集 "Cosmopolitans" にある ”The Bum" です。

英語原文は私の前回投稿にある "The Wash Tub" と共にインドの団体(?)の archive.org なるサイトに無償で公開されている書籍、 Cosmopolitans に収載されています。

私の今回の記事では、”The Bum" の冒頭文章を取り上げます。

[原文 1] God knows how often I had lamented that I had not half the time I needed to do half the things I wanted. I could not remember when last I had had a moment to myself. I had often amused my fancy withー the prospect of just one week's complete idleness. Most of us when not busy working are busy playing; we ride, play tennis or golf, swim or gamble; but I saw myself doing nothing at all. I would lounge through the morning, dawdle through the afternoon and loaf through the evening. My mind would be a slate and each passing hour a sponge that wiped out the scribblings written on it by the world of sense. Time, because it is so fleeting, time, because it is beyond recall, is the most precious of human goods and to squander it is the most delicate form of dissipation in which man can indulge.
[和訳 1] 私は自分がやりたい事、せめてその半分だけができる時間が欲しいのですが、そんな時間の半分すら私には見つからないなと何度嘆いたことか、あまりにも頻繁に嘆くもので本人の私にすらその回数は分かりません。また、前回最後に自分の為の自由な時間を持ったのが何日のことであったかも分かりません。一週間の完全な休暇・することが何もない日がくるのを頭に思い浮かべて心弾ませたことは何度もあります。私と同類の人々にあっては、仕事で忙しくない時には遊び事で忙しく時を過ごすのが良くあるケースです。馬に乗ったり、テニスやゴルフをしたり、泳いだり、ギャンブルにいそしんだりという次第です。しかし私となると、時間があるときには全くもって何もしません。午前中の全てを部屋でゴロゴロ過ごし、午後にはブラブラと過ごし、夜にはデレッと時を過ごします。私の脳は当に石盤になりきります。そして刻々と過ぎゆく時は、知覚の世界がその上に描き残した文字や図柄を拭い清掃するスポンジと化します。時なるものは進行し続けるものであるから、時なるものは呼び戻し不可能な物であるから、人間にとって最も大切なものなのです。そういうことから、それを気ままに惜しみなく使い尽くすというのは人が味わうことのできる最も繊細な大量消費(価値ある使い方か否か、見る人次第であって、繊細微妙な時の使い方)と言えます。

Lines between line 1 and 17 on page 220, "Cosmopolitans" published
from William Heinmann Ltd. in 1936, collected and issued in 1938

別にこのことを知ったからとて、この文章の読み手には医学知識や料理のレシピを知ることで得られる類の利益はありません。この程度の内容の事柄をこれほどまでに工夫を凝らして書き上げられたこの文章は、読み手に対してあなたはこんなに面白いやり方で表現できますかとチャレンジしてくるのです。テレビ番組で人気を博しているそれなりに易しいクイズ番組と同じ楽しみを振り撒いているのです。


2. モームの文章と対局をなすかのように平板な文章の例

書き手が達意の文章と小説の文章の区別、この小説における適否を考えた上でこの様に平板な文章にしたのか否か良くは分かりませんが、次の翻訳文(ドイツ語の小説の英訳文)に出くわしました。(「ほんやくWebzine」という私的グループにより公開された投稿記事です(下段に引用先を掲示)。

広く翻訳文にあっては、原文が小説であっても、原文の意味を忠実に伝える方を優先すべきだと私は思っています。闇雲に原文が持つ雰囲気だの遊び心だのの再現を狙って原文の意味を疎かにされるのを私は好みません。私が「小説の翻訳には頼りたくない」と思う理由がここにあります。

上にモームの文章の和訳を記してはいますが、この和訳文を作るに当り、私には原文の雰囲気を映し出そうなどとは全く考えたことはありません。意味が通じる範囲で元の文章の使役関係などをそのままにしたい、文章の意味が明確であるようにとは望んではいますが。

このようにして出来た上記の和訳文はおそらく次にあげるドイツ語原文の英訳文と、「平板な文章である」という点で似ているのだろうなと思っています。この記事を読んでくださっている方々に読み比べて頂ければとの趣旨でございます。

[原文 2] In fall he saws up the branches felled by storms from the big oak tree and several of the pines, splits the pieces and stacks the logs in the woodshed, when fall is coming to an end he retrieves the heating coil from the cellar of the house and sets it up beside his bed in the extractor room, and finally at the beginning of winter he empties all the water pipes in the house and turns off them
[和訳 2] 秋となると、彼は嵐の所為で折れてしまった大枝をのこぎりで短く切り刻みます。大きなオークの木の枝があり、何本ものパインの木の枝もあります。次には刻んだ丸太を細かく割り木に整理すると薪として木組みの小屋に積み上げます。秋がその終わりに近づくと、彼はこの家屋の地下の倉庫部屋に設えられた暖房用配管・電線ケーブルを取り外します。それを今度は彼のベッドの横に取り付けるのです。この男のベッドはこの家屋に付属する設備機械室(Extractor room)に置かれています。そして最後、冬の到来となると彼は家屋のあちらこちらに敷設された全ての水道配管内の水をすっかり空にして、その後、これらすべての配管を外からの水から分離するのです。
(Note: a carpet extractor is a carpet cleaner which “extracts” the dirt and stains to clean the fibres of a carpet, leaving it clean and sanitized.)

『Heimsuchung』(エルペンベック著)の英訳『Visitation』(Susan Bernofsky訳)より

ここに引用した文章は、私が 今や昔となった35 年間、仕事にしてきたエンジニアリング分野の作業マニュアルや化学工学分野のプロセス・エンジニアリングの世界の言葉と変わりません。

この文章を読むとこの男の顔や人柄よりもこの作業手順がどういう理由の下に順序だって行わねばならないのか、冬になって配管の水が凍結するので水を残してはならないのだなとか、万が一にも栓が甘くて配管内に水が漏れて流れ込んではいけないのだなとか、倉庫のヒーターを傷めないように取り外し、ベッドの横に取りつけて使うのだから気合を入れてやらないとまずいなとかついつい考えてしまいます。小説そっちのけです。私にはそれはそれで面白い世界です。今ではなつかしさが心をよぎるような要素も加わります。

平板な文章は芸術ではないと言いたいのです。ただし小説が芸術であるためには平板な文章であってはだめだとは言っていません。小説の価値は文章の巧みさのみで決まるのではありません。


3. "The Bum" の時代を頭に描いてこの短編を読む。

Cosmopolitans なる単行本が発売されたのが 1936 年で、それに先立つ何年かに渡る期間に Cosmopolitan という雑誌に連載されたモームの 30 本の短編の一つがThe Bumだということです。この舞台となったメキシコはトロツキーがロシア革命の後、スターリンの政権から敵視され亡命していた土地です。このトロツキーがメキシコで殺害されたのが 1940 年とのことですから "The Bum" の時代(想像するに1932 - 1935 頃)、そしてモームが描く町の様子(歴史の知識・学習した経験には乏しいながら、私が想像する当地の社会)とよく一致するのです。またローマでの「モームとこの男の出会い」も私が会社員として外国の都市に駐在していた時のこと、安いホテルで一人で食事していて言葉を交わした若い日本人たちグループが居たという経験とも、時代が70年程ずれてはいても、よく一致します。

余談ながら驚いたのはこのトロツキーがウクライナのヘルソン地区に生まれ育ったとの記述(ウィキペディアJP)でした。


4. Study Notes の無償公開

例によって私の Study Notes を無償公開します。この短編 "The Bum" の一遍全体に対応するものです。A-4 の用紙に両面印刷すると A-5 サイズの冊子ができるように調製されています。