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ドラマ「95」に感じる不安定さは何なのか


あらすじ

「日本の音楽産業の30年」について取材を受けていたカラオケ会社に勤める広重秋久は、高校時代の話を聞かれ戸惑っていた。自分の人生を変えた29年前の”あの事件“…これまで蓋をしていたあの頃の記憶が鮮明に蘇っていく。
1995年3月20日、成績優秀で品行方正な高校生だった秋久(髙橋海人)は、地下鉄サリン事件をきっかけに人の死に直面し、動揺する。世界は本当に終わってしまうのか。言いようのない感情を抱え、持て余していたときに、これまで話したことのなかった同級生・鈴木翔太郎に突然呼び出される。「ぼんやり大人になって、ぼんやり死んで、お前は満足なんだな?」悶々とした気持ちを焚き付けられ、強制的にチーム(仲間)に誘われる。これは、混沌と狂熱が入り混じった1995年を、時には道を踏み外しながら心の赴くままに駆け巡った少年たちのアツい青春ストーリー!

https://www.tv-tokyo.co.jp/tx_95/intro/


キュウゴー、見ててめっちゃつらい

初っ端から語彙力なし。

めちゃくちゃ面白いけど、見ててめちゃくちゃ辛くないですか?
私は、毎回手足が痺れて、緊張してる時と同じような感覚になる。
これ何なんでしょうか。

ということで、完全原作未読ですけど考えてみました。
完全原作未読です。忘れて欲しくないからもっかい言う。
↓↓↓ まだ1話から観られますので

1.95年に意識のあった者の罪

意識があった者。赤ん坊じゃなかった、ということ。
私は95年当時小学2年生。
阪神淡路大震災の発生時、地下鉄サリン事件の発生時、麻原彰晃逮捕時。
全て覚えている。
阪神淡路大震災は別として、オウム関連の一連の事件について、私は社会との共犯者だったと思っている。小学2年生であっても。
ここは私の記憶だけで語ってしまうけれど、地下鉄サリン事件の前にはオウム及び麻原彰晃は「面白コンテンツ」だったと思う。
めちゃくちゃ真似してたし。
そして恐ろしいことに、それは事件後も同じ。
オウムでの洗脳方法、耳元で「○○するぞ○○するぞ○○するぞ……」というもの、家庭内でやっていた。勉強するぞ勉強するぞ勉強するぞ……って。
麻原の空中浮遊の真似もやっていた。

私を含め、社会全体が、あれだけ多くの被害者を出した大事件を企てたオウムを、消費し笑った。ネタにした。
95を見ていると、その忘れかけていた罪を思い出す
90年代初頭以前に生まれた方。気分はどうですか。私と同じですか。

2.翔とオウムの関係性

オウム真理教は教義体系が意外とよく出来ていて、高学歴であったり社会的地位の高い信者が多いと言うのは有名な話だけども。
主人公Q(秋久)のチームのリーダー的存在・翔も、かつてオウムに傾倒しかかっていた。
「社会を引いた眼で見られる、同世代より大人びた知的な」翔が、既存の社会を打破しようとした結果、「オウム信者あるある」みたいな状態になってしまうというこの皮肉。

3.翔、Qたちのチームは小宗教

2と繋がる話だけど、翔は社会に反発した結果新興宗教に傾倒しかかり、軸足を自分たちのチームに戻した。そのチームの形が、ほぼ宗教。
一般的な物語だと、こういう社会を打破したい若者が形成したコミュニティが結局小社会、となる。
でも、95においては社会ではなく宗教。宗教幹部。
それが如実に現れていると思うのが4話の、Qの仇討ちという名目で行われた、敵対する他校生徒へのリンチのシーン。
翔たちはQに、他校生徒とタイマン張ることを要求する。
「同じ罪を背負う」。共犯関係により連帯感を形成する。
あるいは密室空間で新入りQを取り囲み、圧で罪に加担させる
「ポア」と称して信者の粛清を行っていたオウムと重なる部分がある。

その結果のQちゃんをご覧ください。目バッキバキ、翔リスペクト
いとしのセイラに洗脳って言われても当然。

これに加えて、Qが加入するきっかけが「世界が終わる(ノストラダムスの予言)」であること。
終末や死を前に、それにどう立ち向かうかという信念の共有、それもまた宗教的だと思う。

4.地盤の定まらない青春活劇

小社会的構造の人間関係による青春ドラマだと、その中で発生するヒエラルキーに鼻白んでしまう。宗教的構造であれば、同じ教義(信念)のもとに集った対等な仲間+教祖(翔)ということで、とてもアツい絵と展開になる。
の、だが。
観ている私たちも、単純に推しがアクションで活躍してて、キャーっとはなれない。
何故なら、明らかに不穏な方に行っているから。
友情が深まれば深まるほど、Qは道を踏み外していく
95年当時の感覚でもそうだから、それを令和の今観ると尚更、この先どうなって行くんだという不安がある。
というか、物語のセオリー的には間違いなく友情が深まり、彼らの快進撃が続くぜ!!=バイオレンスQちゃん爆誕、となる訳で、それが見えてしまってるのが怖い。

普通の青春ものと言ったら、「甲子園を目指す」とか「あの人と付き合う」とか「○○を克服する」とか、目標地点があって、その道程も地に足ついたものになっていく。
しかし95においては、ドラマ1話冒頭でかなり犯罪性高そうな絵面で逃走するQの姿が描かれている。
つまり、進んだ先の未来が破滅スレスレであることだけが提示されている
その上で、チームの閉塞的友情視点からの、かなり主観的な映像(リンチシーンとかモロにそう)で展開される。与えられる情報が限定的。
視聴者は視野狭窄にされたうえで、見えないゴールに向かって綱渡りしている感じ。いや、見えてはいるのか。破滅スレスレのゴールが。

5.令和的コンプラフィルターを逆手に取る

現在、あらゆる創作物は、令和の感覚に基づく「コンプラ」「暴力表現の忌避」「不謹慎」のフィルターから逃れられないと思う。
今作、特にドラマにおいては、現代のQをしっかりと描くことで、「現代から見たら後悔の歴史である」ことを明示している。
これは「そういう時代もあったね」で終わらせないテクニックだと思う。
つまり、意図的に令和的視点を受け入れている
視聴者はフィルターをかけることを許され、その結果フィルターからこぼれ落ちた普遍的なもの―青春期の社会への苛立ち、あがき、友情譚が際立つ。但しそれらの行き着く先がまたハッピーエンドではなく、視聴者は熱くなりつつも進行がこわいという不安定な気分で視聴し続ける。

コンプラのフィルターを逆手に取り、観る私達もまた作品現象の一部として取り込まれるこの手法、ドラマならではだと思う。


結論:令和によくこんなドラマやれてるな(賞賛)

こんな先が見えない、見えてもヤバい香りがプンプンする、そして息吐くようにバイオレンスなドラマ、よくやりますよホント。
令和の若者にとっては、地上波で大丈夫?!っていう過剰な暴力的表現の多いドラマだし、
95年通過世代には過去の恥や罪を突き付けられる。
今の時代だからこそ、この不穏なエンターテイメントが確実に視聴者を刺すことが出来る。
いやぁ、放送前は「90年代のサブカルとか出てくるかなーワクワク」とか思ってたけど、蓋を開けたらさっき一緒に殴りに行ったよYAH YAH YAHですよ。
MARIONETTEみんなもうトラウマだよね。

そしてこのドラマの主演がKing & Prince髙橋海人というゴリゴリのアイドルであり、そのファンが熱い視線で見守っているという甘辛アンバランス。面白すぎんか。

4話のオープニング痺れた。これから良くないことが起こりまーす!の効果音が続いた後のmoooove!!
歌い出しの髙橋海人の声、いつもならセクシーとかエロイとか表現するかもしれないけれど、今回はもう「卑猥」でした。卑猥。
95年の猥雑さを体現する歌声、素晴らしい。

今後物語がどう展開していくか分からないですけど、この
「どうなっちゃうんだー!!!?」感が最高に堪らないので、原作未読も悪くないなと思っている次第です。

いやー、エンタメおもしれー!!!!


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