妄信的なおせっかい
おはようございます!
寝不足なのに目が冴え渡っている47です。
今日はふと思ったことを深堀りしたいなと思います。
仕事に悩む仲間たち
最近、後輩に先輩に友人に、仕事に悩んでいる人がいたら、むやみやたらにその話をつついてしまう。
外回りから在宅ワークを考える先輩、
このままでいいのか・・・と思い悩む後輩、
自分の強みがわからないと嘆く友人。(わたしから見たら魅力的なところたくさんあるのに!!)
そういう自分はどうなんだ。
うつで休職中に、正直、もう現職では何も出来ないなと直感が働いた。
そこから転職を意識し始めて、
でも自分にできることってなんだろう
自分がやりたいことってなんだろう
と考えるようになり自己分析を始めた次第。
自己分析のつらさ
今となってはやってよかったと思えるが、
己と向き合うというのは本当にしんどい作業だ。
いや、できること・やりたいことが分かっている人なら辛いことなんてないのだろう。
言語化されていないだけの明らかな意志を組み上げるだけの作業なのだから。(もちろん、言語化する難しさというのはあるが。)
我々悩める子羊たちは、
まず、己の存在意義を疑うところから始まるのだ。
どんな仕事ができるかな・・・でも持っているスキルではやりたいことできないんじゃないか・・・そもそもやりたいことってなんだろう。
仕事以前にやりたいことなんて何も思い浮かばない。
いや、思い浮かんでもお金が伴わない、時間が作れない。
やりたいことができない
誰の役にもたたない
僕のいる意味ってなんだ?
・・・きっとこれを読んでハテナが浮かぶ方もいらっしゃるでしょう。
そういった方は、
じゃあできることを増やしたらいいんじゃない?であるとか
今できることで選択していったらいいんじゃない?といった
アイデアが思い浮かぶんじゃないでしょうか。
ですが、反対に共感する方もいらっしゃるはず。
そういった方は、
スキルがあったとて、突出しているわけではないし、隣の人と比べたらなんてことない。もしかしたら、やってみたら誰でもできるような事かもしれない。
だからって今からできることを増やすなんて時間も気力も体力もない。
と現実を突き詰めて考えていらっしゃるんじゃないかと思います。
我々迷える子羊は、自己分析においてまず、この「ない」と向き合わなければならないのだ。
なぜなら「ある」という存在が希薄になるほど自信を失っているからだ。
自信を喪失させる日常
いわゆる自尊心。
わたしが所属していたのは軽音楽部。
ここに集まる奴らなんてみんな承認欲求の塊だ。
それだけど自分に自信がない奴らだ。
矛盾を抱えてどうにもしようがないから音楽に逃げ込むのだ。
きっかけが何かなんて人それぞれだが、
わたしの場合は、女子の群れに馴染めない自分やヒソヒソ笑われる怖さ、父との確執などが絡み合った結果なのかもしれない。
最初は対峙した。
しかし勇気をもってチャレンジしても、できないものはできない。
それを受け入れられずに、「普通」に縛られて、それでも普通から逃げ出したくて、鬱々としているうちに日々は過ぎ去る。
そういうものを克服できずに時間が積もると、
承認欲求がふくれ上がった自信喪失家が出来上がるわけである。
根深く繊細な話。人によっては恥部だ。
そんなところを他人であるわたしがつっつくわけにはいかない。
だから他人の真意なんてわからないのだが。
だが、わたしの周りの人間には似たような影をやはり感じるのである。
苦しみを味わってほしくない
そんな影を感じる仲間だからこそ、同じ穴のムジナになってほしくないわけだ。
幸いわたしは6月から細々と続けた自己分析が実りつつあるのか、
己の「ない」に目をつぶるということを覚え、
やりたいこと・強みのようなものが少しずつ浮かび上がってきたように感じられる。
だが、仲間たちはどうだろう。
まだ自分の「ない」と向き合ってすらいない状態。いや、向き合った結果「ない」ところと目があって逸らせなくなっているのかもしれない。
そんなしんどいことはない。
自分の存在価値を疑うところまで行ってほしくない、行ったとしたらすくい上げてあげたい。
だから、仕事・転職の悩みをきくと、
むやみやたらにその話をつついてしまうのである。
それって妄信的なのでは?
幸い、一緒に自己分析やろう!と誘うと、
好意的な返事(ありがとうやそういうところに救われる)をいただける。
だから彼らにとっては、わたしが行っていることは
❝妄信的な❞おせっかいではない。と思う。
でもこれって、相手とのすり合わせをしていなかったら
ただの妄信的なおせっかいだよな・・・とゾッとした。
わたしが良しと思ってグイグイ話を進めても、
相手はまだそんな具体的なことは考えていないかもしれない。
まだ漠然とそう思っただけかもしれない。
あるいは、その仕事が今行き詰っているだけなのかもしれない。
第一すくい上げて❝あげたい❞なんて。
おこがましい。
たかだか転職の本を数冊読んで、実践して、結果を得られた。それだけの経験でもってすくい上げてあげたいだなんて。
第一救われたい人間というのは、自ら救われるような行動をするものだ。
誰かに助けを乞うだとか、
本を開いてみるだとか、
転職サイトをなぞってみるだとか。
鬱々としているということは
まだ何か引っかかりがあるから鬱々としていたい状態なのだ。
蚕が繭に包まれるように、
赤子が母体に守られているように。
そこから引っ張り出そうとする行為は・・・
有効な場合もあるが、ほとんどのケースはその人に傷をつけるようなものだ。
類は友を呼ぶというから、
わたしが悩んでいるから引き寄せられるのかもしれない。
とはいえ
仕事の悩みに自己分析!とすすめるのは妄信的だったかな・・・?
相手が望まないおせっかいになっていないか?と、
心配になりはじめたらこんなことを考えてしまい、
頭の整理をつけたくてnoteを開いたのでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?