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二千ハ百円なんて安いもんだ

 休日とはいえ、午後三時を回るとファミリーレストランも空席が目立つようになった。仲の良さそうなカップルや喫煙席でタバコを吹かすスーツ姿の男、騒ぐ子供に目も向けずにお喋りするママ友。店員も暇そうにしているのを見ると、みんな食事のためというより、ただここに来るだけが目的のようだ。

 「遅かったね」ぼくがドリンクバーから席に戻ると、二岡ななみがスマートフォンから少しだけ顔を上げて言った。「何それ。カフェオレ?」
 「カルピスとコーラを一対一でステア」少し得意顔になりながら、ぼくは説明した。「ぼく特製のカルピスコーラだ。特別に真似させてやってもいいぞ」
 「調べたらすぐ出た」二岡がウェブの検索結果をこっちに見せる。ご丁寧に動画だ。「全然オリジナルじゃない」
こういうやつだ。わからないところをササッと調べて、ニンマリと笑う。ゼミの数少ない女子とはいえ、全然可愛くない。ふん、と鼻を鳴らし、ぼくはテーブルに広げられた課題に目を向けた。ここに来て二時間ほど経ったが、三分の一ほどしか終わっていない。
「どれぐらい終わった?」相変わらずスマートフォンを眺めながら彼女は言った。SNSを眺めているのではない。気になった何かを常に検索しているのだ。ぼくは心のなかでGOOちゃんと呼んでいる。誰にも言ったことないけど。
「あー、半分くらいだな。二岡は?」
「あたしは三分の二ぐらい」
 スタートが同じだったのに、あっさりと抜かれている。嘘までついたのに。さらにダブルスコア。大学生で最初にゼミで会ったときから、彼女は効率がいい。教授から出された課題なんて、週末までに仕上げていることがほとんどだ。
「ふん、たった三分の二だろ?」
「でもキミはそれ以下でしょ?」
「ぼくは半分もやり遂げたんだ」
「それ、ただの屁理屈ですから」
「屁理屈は立派な理屈ですから」
「そうね。嘘がお得意だもんね」
 意味ありげな笑みを浮かべながら、二岡が顔を上げた。
「ぼくの屁理屈は嘘じゃない。ちゃんと筋道を立てた論理さ」
「私が屁理屈を嘘くさいって思うのは、その裏にある心理が透けて見えるからよ」いよいよ彼女はテーブルの上に身を乗り出し、すこし挑戦的に唇をなめた。Tシャツから見えそうな胸の谷間は見ないようにした。視界には入ってるけど。
「屁理屈が本来の理屈のように聞こえないのって、何かを隠そうとして、取り繕ってるのがわかるから。そして大抵の場合、そのなにかってのも、自ずと分かるものよ」
「へぇ、じゃあどんな屁理屈でも、本人が何を言おうとしてるのか、二岡にはわかるってこと?」
「だいたい分かる。心理って、案外単純なものよ?」
そう彼女は言って、再び課題に手を付け始めた。
ちょっと面白くなってきた。

 「二千八百円なんて安いもんだ。ファミレスに来られなくなるぐらいなら」
「え? 何?」二岡は再び顔を上げた。
「言っただろ? 屁理屈言ったら、そいつの心理が当てられるって。当ててみろよ」
「あー、はいはい、それね。ホントにしてくると思わなかった」
 二岡はため息をつきながら、ゆっくりと背もたれに体を預けた。心なしか、少し楽しそうだ。
「まず、それはグチね」
「太っ腹な金持ちのセリフとも取れそうだけど?」
「お金持ちはファミレスに来ない」
それもそうか。
「『なんて』という言葉からは、本当はそうじゃないという響きが聞こえることからも考えると、二千八百円を惜しんでもファミレスを選んだということ。そんなにお金に余裕がある人じゃないね」
「なるほどね」
「あと、言った人は男」
「どうして?」
「女性は男性よりも金銭感覚がしっかりしてる。お金に余裕がない女性だったら二千八百円のことを簡単に諦めたりしないで、どうにか有効活用できないか、考えるもの」
「ケチってこと?」
「だからキミは彼女できないのよ」
さらりと毒づかれた。本気で言っていないことを祈ろう。
「他には?」
「その男……A君にするね。A君はファミレスでご飯を食べることを目的としていない」
「ほう?」
「ファミレスは本来、何かを食べに来るところ。だから、何かを食べたいと思っていたら『ファミレスで食べられないなら』って言うはず」
「じゃあA君は何しにファミレスへ?」
「人がファミレスに来る理由はそんなに多くない。ご飯を食べる以外だったら、休憩のため、おしゃべりのためとか……。
だけど、いくらA君の金銭感覚が雑だからといって、今言ったことに比べたら二千八百円の方を取ると思うわ。休憩とかなんて、いつだってできるもの。だから今は、目的はわからない」
 怖い女だ。尊敬の念をこめて、そう思った。
「ここで一旦、二千八百円の方に考えを切り替える。
さて、雑な金銭感覚とさっき言ったけど、A君は、本当はファミレスを選んだことを若干後悔している」
「なんで?」
「二千円でも三千円でもなく、二千八百円と明確に記憶しているから。本当はその二千八百円の何かに心を惹かれている」
「A君は二千八百円の何かとファミレスを選んだら、ファミレスを選んだわけ? じゃあ、それって何だ?」
「すぐにはわからないけど、二千八百円は税抜きの価格じゃなくて、税込みでこの値段だと思う」
「思い切ったな」
「みみっちい男っぽいから、グチるなら、きっと税込みの値段でグチる。半分は仮定だけど」
仮定でもA君がかわいそうになった。
「で、それは何なの?」
「で、思ったの。これ、もしかしたら二人分の金額なのかなって。」
 すこし飛躍的だけど、無視した。自分の手の汗の方が気になったからだ。
「二千八百円を二で割ったら千四百円。千四百円だったら、私はひとつ思い浮かぶものがある」
ここで二岡は名探偵よろしく、少し間をおいた。
「映画の前売券」
 ここで犯人なら、正解だよ、と力なく笑い犯行を自供するところだが、ぼくは全精神力を使って動揺を防いだ。バレてないはずだ。
「だからA君は、映画のチケット二人分とファミレスを比べて、ファミレスに来ることを選んだ。さて、なぜか?
映画のチケットが二つ。自然な流れで、デートを連想できる」
「へぇ、じゃあどうしてファミレスに来ることを選んだんだ?」
 どうか、声が震えていませんように。
「ここでさっきのファミレスの目的に戻る。さっきはA君一人だけで考えていたけど、もうひとりそこに女の子がいるとすると、話は変わってくる。これも自然な流れでファミレスデートだろうけど、A君がその子と付き合ってるなら、ファミレスなんてまた今度にして、すぐに映画デートをすればいい。だけどそれをしない。というよりは、それができない」
 なんで、こんなゲームを始めてしまったんだろうか、という後悔が駆け巡る。自業自得、自縄自縛、ミイラ取りがミイラになる……。
「付き合ってない男女がファミレスで、ご飯も食べずにしていることは? 例えば、私達のように課題をするためとか」
「あー、なるほどねー」
もう視線は手元のカルピスコーラに移っていた。コーヒーを選べばよかった。思いっきり苦いエスプレッソを。
「以上をまとめると、A君の心理は一つ!」
 二岡は、今度はあの少年名探偵を連想させるポーズをとった。
「きっとA君は、断られて気まずくなって、今後一緒にファミレスに来て課題ができなくなるぐらいなら、二千八百円のチケットを無かったことにしよう、って考えている!」
 ビシッと指さされた一瞬の間は、文字通り一瞬だっただろうが、ぼくには心臓が止まったかのように感じた。そして同じく一瞬で、ぼくは脳内で止まった心臓と全身に電気ショックを与え、全エネルギーを「ニッコリトワラウ」に切り替えさせた。
「へー、すげーじゃん。そこまで想像できるとか。」
もっとうまいこと言えるだろぼくのバカ。
「当たった? ねぇ、当たったんでしょ?」
「まぁ、いいんじゃないの?」
キラキラした目で聞いてくる二岡に、ぼくは愛想笑いぐらいしかできなかった。
「やったー、じゃあ今日おごってよ」
「しかたねーなー」
「やったー!」
 お調子者モードのスイッチを力強く押すところを想像しながら、ぼくはおどけてみせた。さらに、なんとか立ち直るために、ぼくはまた酸っぱいぶどうを噛みしめることにした。
「まぁ、A君はぼくの友達なんだけどね? ぼくもヘタレだなぁとは思ってるんだよ? だけど、もし誘って女の子に『こいつガッツイてるな』って思われたら嫌だから、どうしよっかなーって、この前相談してきたんだよね。そこで、あいつがそう言って、諦めようとしてたんだよね」
 「へぇ、そうなんだ」
二岡はもう興味を失ったようで、代わりにぼくのカルピスコーラをじっと見つめている。喋りすぎて喉が渇いたのだろう。

「ジュース、とって来てあげようか?」
「あ、ありがと。私、キミのスペシャルブレンドで」
「ん、わかった」
ぼくは二岡のコップを持って、立ち上がろうとした。
「私は、A君のこと、応援したいな」
「え?」
 二岡はこっちに顔を向けてはっきりと言った。聞き間違いではないようだ。彼女は笑顔だった。嘲笑でも、苦笑でもなく、にこやかな笑顔だった。
「失敗するか成功するかはさ、やってみないとわからないじゃない。無責任な言い方だけど。でも少なくとも、私は何かに挑戦しようとする人のほうが好きだな」
その時ぼくはなんて言ったのか、覚えていない。ふーんとか、あいつに伝えとくよとか、もしくは頷いただけだったか。
 ドリンクバーについたぼくはゆっくりと作業に移る。カルピスを原液だけ入れて、コーラを同量。そしてストローで軽くステア。最初は美味しくないだろうと思っていたこのドリンクも、やってみたら美味しかった。人生がジュースのようにうまく混ざり合うわけはないけれど、この味はきっと自分で試さないとわからないままだった。
 二岡のドリンクを台に置いたまま、ぼくはポケットに手を入れる。もう買って一週間にもなるその紙切れは、すでに端っこがちょっと折れてシワが寄っている。
 小さく深呼吸してから、ぼくは、その二枚の紙切れを、少しでもきれいに見えるように、丁寧にシワを伸ばした。

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