「ゴジラ-1.0」の感想

「ゴジラ-1.0」を観てきたので、感想を書いてみようと思う。

最初に書いておくと、私はゴジラは割と見ているほうの層だ。
父が好きだったので、ミレニアムシリーズ以降は父と一緒にすべて劇場で観ている。(ついでに言うと、1992年の「ゴジラvsモスラ」を妊娠中の母が父と一緒に見ていたらしいので、胎児のときからゴジラを観ているということもできるかもしれない。)
幼少期に昭和シリーズは一通り観ている。平成VSシリーズは、何本か観ていないものもあるがほぼ観ているはずだ。ただ、小学生頃の記憶なので正直内容はあまり覚えていないので、語れるほどではない。
シンゴジラは劇場で2回観た。サブスクでも3回ぐらい観たと思う。
ハリウッド版は、2014年のものだけ観た。最近やってたアニメ版は、たしか2作目までPrimeで観たと思う。
そんな感じで、一通り観ているけど記憶はおぼろげ、でもゴジラは身近、という層の感想と思ってももらえればいいと思う。

世間の評判は知らないが(大コケという話も聞かないので、それなりに受け入れられているのだろう)、私としては、「うーん、なるほど。」という感じだった。無理やり点数化するなら68~72点ぐらいだろうか。

まずはよかったところ。
これはいろいろな人が言っていることだろうと思うが、明確な主人公を登場させている点。神木くん演じる敷島中尉は、ゴジラと強い因縁があり、かつ乗り越えるべき壁・償うべき罪をもった主人公として描かれている。それによって、敷島中尉目線の物語が生まれる。ゴジラ映画は基本的には主人公の主人公性が希薄で、物語はとってつけたようなものが多い。(そうではない、またはそうならないように努力している作品もある。)ただ、正直これが悪い点にもなっている。それは後述。

それから、こちらはシンゴジラとの対比となるが、民間主体でゴジラと戦うという展開もよかった。
「ゴジラ-1.0」は間違いなくシンゴジラと対比される作品になる。庵野さんはシンゴジラであそこまで無茶苦茶なゴジラ映画を作り大ヒットさせたわけだが、そのおかげで(せいで)世間一般の人にとってのゴジラは基本的にはシンゴジラとなっているだろう。(レジェゴジとの対比になる可能性もあるが、むしろそこはレジェゴジに近づけようとしているように感じた。こちらも後述)
その、「シンゴジラ面白かったよね。またゴジラ映画やるみたい。観に行こうかな」というライト層(敢えてライト層とする)に向けている、という感じがこの映画からは随所に感じられた。
民間主体で戦うストーリーというのも、政府官僚主体だったシンゴジラの逆をやろうという意図が見える。主人公を定めるというのも、群像劇だったシンゴジラと逆に進もうとしたら、確かにそうなるよな、と思わされる。
ただ、戦後すぐなので武力解除していて日本軍がないというのはいいとしても、ソ連との関係がきな臭いから米軍は手出しできない、というのはさすがにちょっと無理がないか?とは思うが。。。

そして、作家性が強く出ていた点も、私は評価していいと思う。
今回「ゴジラ-1.0」を見るにあたり、山崎貴作品をいくつか観賞しておいた。まずは近場のTSUTAYAで入手できる一番初期の「リターナー」。(本当は「ジュブナイル」から見たかったが、手に入らず断念。)そして、「永遠の0」と「アルキメデスの大戦」。ALLWAYSシリーズは、1作目と2作目を当時劇場で観ている。
それらを観たことのある人ならもうすぐわかるように、「ゴジラ-1.0」はめちゃくちゃ山崎貴映画だった。キャスティングもそうだし、時代設定もそう。敷島中尉の設定も、ほぼ「永遠の0」宮部久蔵だ。宮部久蔵が特攻しなかった世界戦、と言ってもいいかもしれない。
この点を低く評価することもできると思うが、私としては、庵野ゴジラたる「シンゴジラ」に続き、山崎ゴジラといえる「ゴジラ-1.0」が来たことは、よいことだと感じる。ゴジラは一怪獣映画の枠を超えて、一つのデザイン、一つのジャンルになったのかもしれない、と感じた。様々な監督がそれぞれの個性を生かしてゴジラ映画を作ることは、ゴジラ好きにとっては喜ばしいことだ。作家性が色濃く反映されたゴジラ映画がこれからも生まれることを願っている。

あとは神木君のオーラ。あの絶望感。特に夢にうなされたあとの精神病む一歩手前(いや、病んでたか)とか、後半の半分彼岸に渡っちゃってる感じとか。後述するように台詞はなぜか不自然な感じを多々受けるんだけど、表情とか佇まいの演技が素晴らしかった。これは『永遠の0』で岡田准一さん演じるの後半の宮部久蔵にも通ずるものがあった。観終わった後に思い出すのは、ほぼ神木君の表情といっても過言ではない。

一方、う~んとなった点。
まずこれに尽きるといってもいいのだが、これはゴジラ映画ではない、ということ。「ゴジラ-1.0」はゴジラが出てくる映画であって、ゴジラ映画ではない。良かった点にも書いたことではあるのだが、今回のゴジラは主人公の超えるべき壁・償うべき罪の象徴としての存在であり、ゴジラ(=戦争の記憶、終わらない戦争)を敷島中尉はいかに乗り越え、戦後にすすんでいくのか、という徹底して敷島中尉主人公の物語になっていた。
その点が映画作品としての見やすさになっているともいえるし、それがライト層を取り込むことに貢献するとも思う。ゴジラの新しい使い方を発明したともいえるかもしれない。しかし、ゴジラ映画(ゴジラが主役の映画)にはなっていない。かといって一般的な映画や戦争映画として観るとどうかというと、それはそれで中途半端に思えてしまう。戦争描写はどこか手ぬるいし、木船はゴジラから逃げ切れるし、残留放射線などにはほぼ触れられないし、ワダツミ作戦はご都合主義だ。
この辺のバランスは難しいところで、ゴジラ映画を期待していった人たちはゴジラの登場時間の短さや前半のドラマパートの長さが厳しいだろうし、一般映画・戦争映画を期待していった人たちは、リアリティの中途半端さに少し冷めてしまうのではないだろうか。そこの両立を目指した意欲作ではあると思うが、だからこそ欠点もしっかりでていると感じた。

ゴジラ映画ではない、というのにも関連するが、ゴジラについての説明の少なさも気になった。そもそもゴジラは何なのか。水爆実験をする前から普通に存在していたっぽいが、そこの説明は何もない。そして、なぜ東京に上陸したのか、そしてなぜ一度海に帰ったのか。
ゴジラ映画を目指さないのであればこのあたりの説明はいらない、ということにはならないと思う。
一方で、ゴジラの描き方は比較的レジェゴジっぽいというか、日本の怪獣というより欧米のモンスター映画やサメ映画的な描かれ方をしていて、「何を考えているかわからない恐怖」「人為を超えた神々しさ」のようなものは見えない。絶対的な食物連鎖上の王、という恐怖は感じるが、それは怪獣映画とは少し違う。言ってしまえば、ライオンとかと同じような怖さ。もちろんそれより断然被害も大きいし放射熱戦は怖すぎだしなのだが、人の知恵でどうにかできてしまう範囲の怖さなことには変わりない。冒頭の変異前のゴジラはほとんどジェラシックパークだ。

それからカタルシスがあまりないのももったいなかった。ワダツミ作戦の視覚的な地味さと相まって、作戦成功時の盛り上がりがない。敷島中尉特攻のあたりのテンポもいまいちよくない。惜しい、という感じ。

それから、敷島中尉の疑似家族の描写も、わかりそうでわからない。
敷島中尉が結婚しないのは、敷島中尉の中の戦争が終わっていないからということは劇中でも語られていたので、あの二人の不思議な関係=終わっていない戦争≒ゴジラということになり、ゴジラを倒した暁には晴れて籍をいれるということになるのだと思うが(最後の3人のシーンは、ついに本当の家族となったことを示すのだろうか。だったらもう少しそれっぽく描いてもよかった気もするのだが…)、それがいまいち活かしきれていなかった感がある。
そしてそのドラマパートに主に感じたが、なんだかセリフが上手くのってない感じ。演技が下手というわけではないのだけど、上滑りしているような感じを受けた。セリフがよくなかったのか…?不自然な感じ。

と、う~んなところを書き連ねてしまったが、全体としては最初に書いた通り70点ちょいぐらいなので、なかなかよかったと思っている。
よかったけど惜しい!という感じ。
ドラマとゴジラの両立、主人公の存在など、新しいゴジラ映画を作ろうとする意気込みを感じたし、それが山崎貴監督の得意分野と相まってかなり健闘していたと思う。単純にゴジラ=戦争・災害とするのではなく、ゴジラ=個人にとっての戦争の記憶であり、ゴジラ=大衆にとっての戦争で生き残ってしまったやるせなさをぶつける相手、と描いたのはとても新鮮でおもしろかった。
バランスを取ろうとした結果の中途半端さが目に付いてしまうが、そこが呑み込めるかどうかで評価がわかれるのではないだろうか。

ゴジラを使って戦後を描く(戦後を使ってゴジラを描くのではなく)というのもよかったと思う。「永遠の0」への返歌ともいえるだろう。
上記のような不満点も、ゴジラ映画が身近かつ映画をよく観る多少目の肥えた層だからというのもあるだろう。
広く一般にこの映画が受け入れられるなら、それはゴジラがより大衆化したことを示すわけで、それならそれでいいと思う。いろいろな人がいろいろなゴジラを作ってくれれば、ゴジラ好きとしても嬉しい。

以上!

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