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木下杢太郎記念館へ

おば(母の妹)が白内障の手術をしたので、ひとり暮らしのため様子を見に、母とふたりで静岡県伊東市まで車で行ってきた。母方の実家になる、祖父母が住んでいた。峠を超え、1時間で着いた。お茶しながら3人で話していて、おばはきれいに見えるようになったと喜んでいる。よかった、げんきだ。
木下杢太郎見てくるといったら、二人とも、小学校の校歌を歌いだした。子供が歌う歌じゃないのよねえ、といって歌っている。校歌の作詞が木下杢太郎だそうだ。

1時間ほど話し、ひとりで家を出た。歩いて5分てとこ、すぐに着いた。

伊東市立木下杢太郎記念館

木下杢太郎(本名∶太田正雄)   
明治18年8月1日生まれ     家は米惣

医学者でありながら、文学や美術などで功績を残している。

解剖図

東京帝国大学医科大学に入学し、在学中から与謝野寛•晶子、北原白秋、石川啄木らと友好を深めた。杢太郎は詩の他に、戯曲、小説、随筆、美術評論、吉利支丹史研究などの分野で業績を残した。
医学者としては、皮膚科でハンセン病について、隔離するべきではないと発言していたそうだ。
医学者として勤務するかたわら、晩年「百花譜」という植物写生を描いていた。個人的にはこの写生が好きで、本でながめている。忙しい暮らしの中でのこと、夜に部屋で花器に生けて描いたり、旅館や植物園など、時間がある休みの日は、たくさん描いていたらしい。素朴でやわらかい、とても落ち着く絵です。

科學も藝術もその結果は
世界的のものであり、
人道的のものである
とある。


生家

記念館とつながって、生家があった。撮影したので、どうぞご覧ください。

ここで写生したこともあったとか



「百花譜」

写生を見ていただきたく、購入したはがきを撮影した。下手な撮影ですがご覧ください。

こんな作風です。見苦しい撮影ですみませんでした。

久しぶりの記念館に1時間もいました。記念館の方にもお話伺い、とても参考になりました。ありがとうございました。なかなか思うように書けなくて、一生涯を説明する難しさにぶつかりました。随所、説明が足りなくて反省ばかりです。


こんなに長居するから、帰宅途中で電話入る。街の方へ行ってるんでしょうと、言っていたらしい。あまりにトリップしてしまい、充実ぶりでした。直に、母と帰る。


伊東市街と海


それでは、またお会いできますように。
ありがとうございました。


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